おちょろ


辺界の輝き―日本文化の深層をゆく

五木 むかしは、船の上で春を売る遊女がいたでしょう。
沖浦 「おちょろ」ですね。相手の船を訪問して商売をやるんですね。(『辺界の輝き』153頁)


「おちょろ(舟)」。知らなかった。


先日、尾上太一写真集『北前船』を取りあげたが、元禄の頃から北前船の航行によって瀬戸内海の島々に新しい港が次々に築かれた。その中に大崎下島の御手洗港がある。享保年間に開けた新興の港である。沖浦和光によれば、この御手洗港では「おちょろ」舟が有名だったという。かつて柳田國男も御手洗を訪れ、「水上大学のことなど」と題する短いエッセイの中で御手洗港の「おちょろ」のことを詳しく書いているという。また五木寛之によれば、同じく北前船が全盛期だった頃に栄えた福井県三国港には哥川(かせん)という名の俳人、能書家としても知られた非常に教養豊かな遊女がいたという(本書「IV 海民の文化と水軍の歴史」の「瀬戸内海の遊女と『おちょろ』」)。尾上太一写真集『北前船』には「三国港」の写真はないが、「御手洗」の写真3枚が収録されている。尾上氏は、その写真解説のなかで「おちょろ」には触れていないが、「この港町の歴史では遊女の果たした役割が欠かせない。全盛期には120〜130人の遊女がいたとされ、船乗りたちは風待ちのひととき、茶屋で遊興の時を過ごした。そんな茶屋の代表格・若胡屋(わかえびすや)の建物が唯一、当時のまま残って保存されている」と「遊女」のことに触れている(『北前船』104頁)。


御手洗のかつての遊女街を歩いた時のことを語る沖浦氏の言葉が印象的である。

沖浦 北前船が寄港してできた新しい港が、瀬戸内海のあちこちに出来ます。そうすると、遊女がわーっと集まってくるわけです。その街並みが、島々の港にまだ残ってます。だけど、もう誰ひとり、訪れる人はいません。夜、人通りの全く絶えた昔の遊女街を歩きますと、かすかに地の底から三味線の音がきこえてくる。わびしい夜ですよ。(『辺界の輝き』156頁)


参考までに本書の目次を引用しておく。

I 漂泊民と日本史の地下伏流
二上・葛城・金剛の山脈と『風の王国
周縁の人・辺境の人−−マージナル・マン
大逆事件と知識人の下降志向
漂泊民サンカ−−その実像と虚像
「山野を栖家と致し、生来漂泊に安んじ……」


II 「化外の民」「夷人雜類」「屠沽の下類」
柳田國男の問題発掘能力
「化外の民」と「夷人雜類」
法然親鸞の革命的言説と「屠沽の下類」
一向一揆の壊滅とキリシタンの活動
体制・内と近世の仏教


III 遊芸民の世界−−聖と賤の二重構造
日本文化とマージナル・マンの系譜
武野紹鴎千利休−−茶道・竹・皮革
芸能発生の原点と遊芸民
アニミズム的呪能と賤民
神事芸能からエンターテイメントへ
マレビトとしての遊芸民
芸能の両義性−−卑賤視と憧れ
「万歳」→ 「万才」→ 「漫才」


IV 海民の文化と水軍の歴史
瀬戸内海のマージナル・ライン
日本民族の源流と海民の系譜
なぜ漁民は卑賤視されたのか
海賊→ 水軍→ 島衆→ 沖家
奇書が物語る水軍の起源説話
瀬戸内海の遊女と「おちょろ」
漂海民「家船」の民俗


V 日本文化の深層を掘り起こす
「平地人を戦慄せしめよ……」
「わび」「さび」と底辺の文化
サンカの語源−−「山家」から「山窩」へ
近代の異能者列伝
浮び上がった『風の王国』の原構造
歴史の表街道と裏街道
先住民族と「日本人」形成史論
おわりに−−『梁塵秘抄』の世界


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参照