昨日書いたように、
沖浦和光と五木寛之の対話集『辺界の輝き―日本文化の深層をゆく』(岩波書店、2002年)の後半では、北前船の歴史の裏側に「おちょろ」と呼ばれた遊女を乗せた小舟が御手洗港などでガンギ(雁木。船着き場の石造りの階段)と沖に停泊した船の間を行き来する光景が垣間見えた。しかし、何かが心にひっかかって、沖浦和光『瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて―』(岩波新書、1998年)に当たってみた。すると予感通り、最終第七章「新興港町の栄枯盛衰」を読んで腑に落ちるものがあった。
懐具合のよい北前船の船頭などは船から降りて若胡子屋(わかえびすや)のような茶屋とよばれた藩が正式に認可した遊女屋の「おいらん」と遊んだという。歌曲や和歌などの教養を身につけたおいらんに比べて格下の卑しい娼婦とされたおちょろが相手にしたのは陸上がりするだけのゼニのない下級の船乗りたちだった。そもそもおちょろを含めた遊女たちの多くは、九州や四国から貧しい家の犠牲となって、五年の「年季奉公」という形で売られてきた者だった。だたし、五年で年季明けになる者はおらず、若胡子屋の過去帳だけでも、二百名を越える遊女がそこで流浪の身を終えたという。一方、下級の船乗りたちの多くは、貧しい生活の中での口減らしとして、十歳の頃から「かしき(炊)」と呼ばれる水主(かこ)見習いとして船に乗った者たちだったという。つまり、両者ともに生まれ育った故郷や家を追い出されて漂泊、流浪の身となった者たちだったわけである。そんなおちょろと船乗りが一夜を共にした。それを沖浦和光は港の「一夜妻」と表現している。
夕方五時にサイレン(喇叭)が鳴って、それを合図に一斉に沖にいる船に向かって漕ぎ出す。入港している船が少ないと、客の奪い合いになってはいけないから、順番を決める。船に着くと、ナワ梯子で全員「顔見世」に上がる。おちょろ舟には五人ほど乗っている。一艘の船では、船員もちょうどそれぐらいだから数は合う。だが、いろいろ好みや注文もあって、すぐには相方が決まらない。なんとか相方が決まると、そのまま船に居残って食事など身の回りの世話から、洗濯、つくろい物まで何でもやる。まさに「一夜妻」である。(219頁)
お互いの似通った境遇、身の上話を囁き合う声さえ聞こえてきそうである。また一年に何回も瀬戸内海を往来する船員たちにはみんな「馴染み」がいたともいう。そんな船員たちは入港して錨を下ろす時に馴染みの女が船を識別できるように決まった回数と波長で汽笛を鳴らした。
ガンギから女たちは手を振って、「今晩行くよ」と叫ぶ。船員たちはじっと耳をすまして、馴染みの女の声がするかどうか聞き分ける。(219頁)
時代が時代、社会が社会であれば、そんなカップルは夫婦になって子供を作って家庭を築いたのかもしれない。