菱さんとの会話


無防備なことに、写真を撮ろうとして道端でしゃがみ込んだり、木や空を見上げていることが多いせいか、何かいるんですか? とか、何か撮れまして? などと背後からよく声をかけられる。場所が場所なら、とっくに命を落としているだろう。昨日はあるお婆さんから声をかけられ、花の写真を撮っています、と答えたら、それは楽しみがあっていいわねえ、としみじみとした口調で言われて、ちょっと戸惑った。今朝はサボテンの花を撮っているとき、背後からそれは凄いねえとあるおじさんから声をかけられ、さらにもうひとり、菱さんという顔なじみの愉快なおじいさんからも、綺麗だなあ、と声をかけられた。菱さんとは久しぶりに会った。歩道を一緒に歩きながら話をした。菱さんは「書道」という金色の文字が光る黒い鞄を持っていた。これから書道教室に? と尋ねると、50の手習いならぬ、70の手習いだ、これは子どものお下がり、と言って笑った。いいなあ、楽しいでしょう? と言うと、楽しくない、と言う。ちっとも上手くならんから、楽しくない、と言うのだ。でも、それにしてはどこかワクワクしている様子でもある。話をしているうちに、その老人倶楽部が主宰する書道教室では先生をはじめ、他の生徒さんたちも全員が女性であることが判明した。なるほど、と腑に落ちた。教室が始まるまでにまだ30分もある。菱さんのルーツは富山にある。町内には富山が故郷という方が少なくない。菱さん自身は富山には行ったことはないが、伯父さんから聞いた話として、富山のどこかには丸に菱という商号の大きな蔵が今でも残っている筈だと言う。富山に行ってみたいと思いませんか? と尋ねると、金もないし暇もないと言って笑った。菱さんは書道だけでなく、他にパークゴルフやカラオケなどの教室にも通っていて忙しいのだった。菱さんは現在に生きている。私のように過去にかまけている暇などないのだろう。そうは言わなかったが、菱さんは内心そう思っていたに違いない。