死刑執行


2010年7月28日朝日新聞夕刊


朝日新聞の記事によれば、死刑制度に反対の考えを持ち、法相就任後も死刑執行に関して慎重な態度を見せていた千葉景子法相は、法務省幹部による度重なる説得によって死刑執行を決断したようだ。法務省内には昨年始まった裁判員制度に関するある危機感が強まっていたという。「市民が苦悩の末に決めた死刑が、法相の判断で滞っては、裁判員からの批判が噴出し、制度を根本から揺るがしかねない」。制度ありき、の本末転倒した意見にすぎないが、その背景には、確定死刑囚の増加と死刑容認派は85パーセントを超えたという今年二月に公表された内閣府世論調査結果があったという。


記者に「変節」の理由を質された千葉法相は「職責に定められていることをさせていただいた」とだけ語ったという。苦汁の決断だったのだと推察する。というのも、千葉法相は現職法相として初めて死刑執行に立ち会ったことを公表したからである。千葉法相は慣例には従わずに死刑執行に立ち会うことも「職責」と考えたのだろう。そんな法相はかつていただろうか。己の決断が結果する事実に直面し、その真の意味を見極めようとするには、普通の意味での職責を超えて人間としての余程の覚悟がいる。生半可な職責意識では死刑執行に立ち会うことはできないだろう。「執行は適切に行われたことを自らの目で確認し、あらためて根本からの議論が必要と感じました」と千葉法相は語ったという。彼女は見たのだ。私たちには見ることのできない死刑執行の現場を。そのことの意味は大きい。千葉法相は、今後、法務省内に勉強会を設置し、死刑制度の存廃を含めたあり方を検討すること、および、国民的な議論の材料を提供するため、メディアによる東京拘置所内にある刑場の取材の機会を設けること明らかにした。彼女が「あちら側」のよき証人になることを期待する。



愛と痛み 死刑をめぐって


私は千葉法相が立ち会った死刑を、次のような辺見庸の文章から想像していた。

 この国の死刑はじつに不思議で呪術的なしきたりにしたがっておこなわれています。これは他の死刑存置国とはあきらかに異なるところです。刑場の位置、ならびに刑場において死刑囚が立たされる地点は十二支でいう丑寅(うしとら)、北東の方向に定められています。丑寅は鬼門です。東京拘置所は新装されましたが、その方角だけはいまでも変えていないでしょう。この方角にたいする感覚は、畏れおおくも宮中に一直線につながっている。宮中の祭祀は丑寅の対角線上でおこなわれ、なるほど死刑執行はその真逆、穢れが立つ場所としてあるのです。
 刑務官が四、五人、所長、保安課長、教育課長、立会検事、検察事務次官医官三人、教誨師の計十五人ほどで死刑は執行されます。縦約一・五メートル、横約〇・九メートルの刑壇の中央に、介添えの二人の看守に強く腕をつかまれ、十二支でいう丑寅の間、北東向きに死刑囚が立たされる。彼の背後に太いロープの輪を広げて待機していた看守は、その輪を彼の頭からズッポリとかぶせる。彼は直立の姿勢で手錠をはめられた手を静かに合掌するが、足が幾分ふるえている。首に縄がかけられる。その縄は鐶(かん)という、箪笥の引き手に似た金属につながっていて、二人が同時にその鐶を引く。どちらの鐶が実際に引かれたのかは誰にもわからない。七、八名の係職員の目が彼の首のまわりに注がれている。ロープの輪の結び目が敏捷に点検されると、保安課長の右手があがる。「やれ」の合図。すると五つのボタンが五人の係員の手元にすばやく寄せられる。五個のうちつながっているのは一つだけ。やはりここでも実際には誰のボタンが操作したのか誰にもわからないようになっている。一斉にボタンが押された瞬間、足元の鉄板が音を立てて二つに開き、首を吊るされた彼は空洞のような地下に向かって合掌をしたままの姿でサアーッと落下していった。ロープの輪が喉元でギュッと締められると同時に、白布で覆われた顔にさっと血がのぼり、凝結したように真っ赤になる。
 これは、彼が刑壇に立ってからわずか数秒の出来事です。彼の立っていた刑壇には大きな穴がぽっかりと開いており、その穴の中央をピンと張りつめた太い麻縄が地下へと一直線にのびている。
 執行の瞬間の音響が合図のように地下室のカーテンが開かれ、検死の医官が二名、つづいて記録係、立会の看守が、いまはもう意識もなくぶらさがっている死刑囚がいるコンクリートの地下室に入っていく。床から三〇センチほどの高さで宙に浮いている死刑囚、落ちた衝撃で合掌が解かれ、二つの握りこぶしが間歇的に、垂れ下がった両足とともにグイッ、グイッと大きく痙攣している。息を引き取る間際、彼の最後の動きだ。
 口元からは乳白色の吐瀉物が吐き出され、がっくりと前に垂れた顔は時間がたつにつれてゆっくりと蒼白になっていく。痙攣も間隔をもちはじめ、やがて静止する。(『愛と痛み 死刑をめぐって』75頁〜77頁)

 死刑を執行する五つのボタンの先に私たちは存在している。死刑は私たち世間が支えているのです。それを私は「黙契」tacit agreement と呼ぶ。明文化されず、契約書を残さず、暗黙のうちに互いの意志を一致させ、私たちは沈黙したまま暗い契約を交わしているのです。黙契のなかで私たちは口を閉ざしたまま死刑を委託しているにすぎません。だから私たちは目にしません。死刑囚が鼻血をだし、眼の玉を飛びださせ、舌を剥きだし、失禁し、脱糞し、射精し、痙攣しながら死んでゆくのを見ずにすむ。まるでゴミ処理のように人まかせにして自分は安全なところにいる。
 ここに例外はありません。つまり、死刑に反対する人も、意図せずともそれに加担していることに変わりはない。また死刑反対論のなかには、その主張をみずからの身体にかかわらせないかぎり、死刑を生産していく余地がどこかにある。それほどに死刑という問題は困難なのです。(同書79頁〜80頁)

 死刑は法律だけの問題ではない。文学も、宗教も、教育も、歴史も、哲学も、文化人類学も、倫理学も、国家論も、死刑はあらゆる分野にわたる主題です。賛成するにせよ、反対するにせよ、死刑が人間の時間的な連続性を断つというあまりに深淵な意味に、じつはまだ誰も追いつくことができないのです。死刑学というものの存在を寡聞にして私は知りません。死刑が学問の領域として確立され、研究されてはない、それはなぜだろうか。私たちの文化や社会や生活や個人の内面に多大なる黒い影を投げかけている死刑は、特定の分野ではなく、思考のあらゆる領域にかかわるものだからです。(同書85頁)


千葉法相は死刑執行に立ち会って、何を見、何を思っただろうか。


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