権力の囁き:公開という名の隠蔽



朝日新聞(夕刊)2010年8月27日


合法化された国家による組織的かつシステマティックな人殺しである死刑の刑場が肝心の〈現場〉を巧妙に回避した形で報道機関に公開された。薄気味悪さだけが残る記事だった。名を伏せられた法務省の担当幹部の指示によって、記者とカメラマンたちは肝心なものは何も見ないように、教誨質、前室、執行室、ボタン室、立会室を、まるで観光案内のように案内されたという。死刑囚の首にかけるロープも、死刑囚が立つ踏み板が開閉される様子もみせられなかった。そして執行室の階段の下にある、死刑囚が首をつられた状態で落下し、辺見庸によれば「吊り下げられた死刑囚が平均十四分くらい空中でダンスを踊るように痙攣する暗い部屋(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」)」(『愛と痛み 死刑をめぐって』41頁)にも案内されなかった。その理由は「死刑囚が生命を断つ、きわめて厳粛な場で、死刑囚やその家族、刑務官などに与える影響を考慮した」と説明されたという。これは権力が死刑執行の〈主体〉と〈責任〉を曖昧にして転訛するために、言葉を巧みにすり替えた典型的な例である。そのような権力の詭弁を正しく言い直すなら、「死刑囚が生命を断つ」とは人を殺すことであり、「厳粛」とは残酷、凄惨であり、「死刑囚やその家族、刑務官などに与える影響を考慮した」とは死刑という名の殺人の残酷さを隠すということである。今回の刑場の公開報道からは死刑執行のリアリティは何も伝わって来ない。国家権力の主人であるべき国民が知るべきことは何も公開されていない。マスコミも国民の皆さんも本当は何も知りたくはないでしょう? という権力の薄気味悪い囁きが聞こえるようだ。