日常


地を這う祈り

地を這う祈り


人は生を享ける場所を選ぶことはできない。気がついたら食うために家族を養うために同じようなことを毎日繰り返しながら生きている「日常」には、場所によって天国と地獄の間ほどの目も眩むような落差がある。死を限りなく遠ざけて壊れ易いガラス細工のように運ばれる生と、死を飲み込んで糞尿にまみれながらも逞しく地を這うように運ばれる生の間で、同じ「日常」という言葉が引き裂かれる。しかし、地を這うような日常には怒りや哀しみや諦めだけでなく、真剣な祈りや束の間の深い喜びもある。涙と笑いがある。一見平和で安住の地を生きる私は真剣に祈ったり、大粒の涙を止めどなく流し腹の底から笑い転げたことがあるだろうか。



例えば、インドには三億以上の神様がいて、それらの神像を作る工房、言わば「神様工場」があると言う。路上では、大人たちの見よう見まねで街路樹に一生懸命神棚を作るストリートチルドレンがいる。両親は死んだか、両親に見捨てられた幼稚園児くらいに見える彼らは朝晩その神棚に祈りを捧げるという(189頁)。