島尾伸三『季節風』を読む1


島尾伸三季節風』(asin:4622044064)を読んで、「狂気」という言葉を他人事のように安易に使ってはいけないことを肝に銘じた。母親の狂気とそれを庇護した父親の優しすぎる愛の下で、幼い兄妹は命を蝕まれていった。妹を救ってやれなかった兄はその後、狂気と偽善に宣戦布告するかのような人生を歩み始めた。妹の分も生き直すために、旅に出、写真を撮り、損なわれた時間を取り戻すべく、書いた。『季節風』はモノクロームの写真と異常な強度の漲ったテキストからなるレクイエムのような本である。

人生経験の未熟な宗教家や教師のお菓子のような説教を聞くくらいなら、言葉巧みではないけれども、生きる糧を得るために、物や金に手を汚し心身を粉にしている我々の愚痴や溜め息のほうが、苦いけれども本当の心の糧になるはずです。悪は不用心な善意に住み着いているということを、この『季節風』の中で私はうまく伝えられるでしょうか。

 島尾伸三季節風』6頁

季節風』は「救いのない精神生活を送った私の両親と妹」(241頁)の俯瞰的記録であると同時に、母親の狂気とそれを庇護した父親のやさしさの仮面をかぶった理性によって損なわれた二人の子供の命の告発的記録の書でもある。告発の矢は、その家族の外の社会にも届いている。

 偽善は犯罪が自分だけで収拾できないことを、破綻してからようやく気づくに違いありません、とんでもない間違いをしでかしたと。
 命に対する立派な犯罪なのに、家族の外の社会では無罪の扱いを受け、二人の子供たちは日常化した虐待を告発する道さえ失っていました。自由を忘れ、寂しく命を終わるしかないのです。子供は傷つけ合うには幼すぎて、その手段さえ思いつかないで、傷つけられるだけなのにです。戦場に若者の命をいとも簡単に放り込む作戦本部のように、しかも男はこれを不条理と呼び美学とし見世物へと仕立て上げ、この苦渋を幼い二人の子供に喜んで受け入れるように命じたのでした。希望は不条理の中で屈折し存在を明らかにしようとする力を生むのですが、それさえとっくに失っていた二人の子供は、ついに心の呟き、祈りをも捨てたのです。(中略)

 狂気との関係は狂気の中にしかないのですから。二人の子供は、人道療法とでも呼ぶ、その父親のお安い理想の未来の医学と理想の治療の行なわれる、未来の社会の犠牲を、早々に背負わされたようなものだったわけです。精神病理学の実験室に閉じ込められた実験動物でもありました。命の根本からは切り取られ、花瓶に活けられて、切り口の痛さに表情がこわばっているのでに、景色は飾られていると了承されたのです。花瓶の中は阿鼻叫喚の地獄なのにです。(中略)

 家庭という名の砂漠、音楽の禁止された空間で唯一許されたのは、彼女の甲高い調和を失った歌声だけでした。狂気は人を豊かにはしません。理性という、生命の肯定という大切なことの通用しない、人間性の否定の上に乗った貧困な精神の暴挙が許された状態だからです。狂気は範囲を拡張し、人間世界を包んでいるようでもあるのですが、キュウリは自分が目の前の狂人の餌食になっていることを、遅まきながらもハッキリと知ったのです。食い散らかされた羊の肢体にイェズスの手が差し延べられたと、聖書に書いてありません。救い出されたのは、迷える生きた仔羊だけでした。はじめイェズスの言葉に救いを感じましたが、それは自分がすでに食い散らかされたことを知って絶望へと変わりました。神も見向こうとしない闇に置かれたのだと。

 同書203頁〜205頁

季節風』は「虚ろな時間」と題された皮肉な寓話的テキストで締めくくられる。

 どうということのない虚ろな時間の毎日が、日記にさえも記録されることなく流れていきます。それがキュウリには心地よい喜びなのです。借りてきたビデオを見たり、学生の頃に好きだったレッド・ツェッペリンやT・REXを聞いたりしながら、雑用を片づけるのです。
 すると、アリが耳に入って来て、こうささやいたのです。「きょう、天使の代理で来た。君があまりにも奪い尽くされているので、天使が何とかしてやりたいと思い、してあげられることがあるかもしれないから、願い事を三つ聞いて来いと言われている……。どうする?」。すかさず「金、女、酒」を注文しました。絵にかいた幸福像より小さな喜びです。梅の樹の上で返事を待っていた天使はさよならも言わずに、願い事など聞かなかったかのように、スウーッと消えて行き、二度と現われませんでした。ただ、そのアリがやって来て、「ものには言い方というものがるんだヨ」などと、さんざんけなした上に、「お前は、ズーッとそうやってな」と言い残して庭へ去りました。なに言っているんだ。アリの連中だって大きなセミの死骸を頼んで、一笑されたと、ヤモリが噂していたぞ。
 その夜、キュウリの守護の聖人マルコとルカが呆れ顔で現われて、「自分の身のまわりにころがっているようなものを頼まないで下さい。もっと貴重なものが思い浮かばないのですか」と。二人の聖人に盗み読みされないように、意識の表面は空白にしておいて、溜の部分を使ってキュウリはこう言い返したのです。「僕は生身だ、今がすべてなんだ」。

 同書234頁

自分を「キュウリ」と突き放して物語るに至るまでの「時間」は言葉と想像を超える。

(つづく)