マッカウス洞窟のひかりごけ


マッカウス洞窟のひかりごけ(光苔, Luminous moss or Goblin gold, Schistostega pennata)。北海道目梨郡羅臼町共栄町


その日の午後三時半頃、私たちは羅臼町に着いた。海上の霧は深く、国後島はまったく見えない。雨脚が強くなってきた。知床峠を越える前に立ち寄りたい場所があった。羅臼市街地から一・五キロほど知床半島寄りの海岸にせり出した山の裾にあるマッカウス洞窟である。その国内最大規模とも言われるひかりごけの自生地は、武田泰淳の小説『ひかりごけ』の舞台としても知られる。事前に調べた知床羅臼観光協会の情報には、岩盤崩落の危険のために洞窟内は平成二十年の夏に立ち入り禁止となったが、その年の秋には一部一般公開が開始されたとあった。一部でもいいから、とにかく実物のひかりごけの光をこの目で一度見ておきたいと思っていた。ところが、実際には洞窟の入口に張り巡らされた鉄格子の隙間から見える範囲の地面には、ひかりごけの金緑色(エメラルド色)と称される光どころか、緑色の苔の姿すら確認することはできなかった。「ひかりごけ ↓」と書かれた小さな板の標識の周囲には湿った地面が広がり、湿った石ころが散在するだけだった。小島剛一さんと私は、武田泰淳の『ひかりごけ』の下のくだりにおける「私」と「校長」のように、ひかりごけを「発見」することはできなかった。少なくとも肉眼では。

 マッカウシと名づけられる場所は、山腹が海岸までせり出して、海側にも大岩が立っているところ。マッカとは「蕗のとう」の意味、ウシとは「……が沢山あるところ」の意味です。そこの洞窟は、海に向って鯨が大口をひらいた形で、内部から眺めると、半円型に岩にかこまれた中央に、海の水平線がせり上がっています。洞窟というよりは、奥に行くほど急にすぼまる、山腹のへこみと言った方がよいのです。赤土の斜面を登るにつれ、岩の天井もさがって来ますが、一番奥でも、暗闇にはなりません。
「ここにあるはずなんですが、どれがそうなのか」と、校長はあたりを見廻している。
 岩盤のどんづまりは、背をかがめるほど低いが、穴の大部分は横も縦もかなりひろく、庭石にしたいような平たく大きな岩も、洞のなかほどで、地面にうずまっています。岸壁も地面も濡れて、水滴をしたたらせる。緑色のこけが、岩肌にも地面にも生えていますが、光る模様もない。近寄って、さわってみると、指の感触は平凡な苔と同じことです。
 二人は腰をかがめて、洞内をしばらく歩き廻りました。洞の内部はきわめて単純な半円で、こまかな屈折も切れこみもなく、一目で見わせるのですから、視野に入るどこかにひかりごけはあるにちがいない。それが二人とも発見できないのです。
「ありましたか」と校長は、申しわけなさそうに言う。
「どうも、わかりませんな」


  武田泰淳ひかりごけ新潮文庫、170頁〜171頁


ところが、その時に撮影した写真の一枚に金緑色に光る点々が写っていることに気づいた。なんと、わずかに生き残ったひかりごけの光! ウェブ上では、過去に同じ場所でかなり広範囲に金緑色に光っている様子が捉えられた写真を見ることができる。おそらくその後の環境変化によってひかりごけの大半は枯死したのであろう。あの時私たちの肉眼には見えなかった光を、カメラは肉眼の位置と方向からわずかにずれた位置と方向から捉えていたことになる。私たちはカメラの助けを借りて、武田泰淳が「光かがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部へ吸いこもうとしているようです」と非常に意味深長に語った脆い(fragile)光をマッカウス洞窟に見たことになる。

 自分の姿勢や位置や視線の方向を、いろいろと工夫したあげく、私は立ちすくんで、探すのを止めました。すると、投げやりに眺めやった、不熱心な視線のさきで、見飽きるほど見てきた苔が、そこの一角だけ、実に美しい金緑色に光って来ました。
「あった、ありましたよ」
「どこですか」
「あなたの立っている、少し右の方、ほら」
 校長がとまどっているまに、私の立っている位置が少しずれると、また別の方角で、金緑色の苔が、ひっそりと光を放ちました。そのかわり最初に発見した苔は、もはや平凡な緑色にもどっています。
「なるほど、あなたのあしもとにもありますよ。ふうん、たしかに光っていますな」校長の声は、やや楽しげになりましたが、あまり声を高めもしませんでした。
 相手が指し示した場所に目をやっても、苔は光りませんが、自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光かがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部へ吸いこもうとしているようです。
 私が知らずに踏んで来た地面の苔も、ふりかえると、私の靴がただけ残して、おとなしく光りました。
「何だ、みんなそうだったんですね。大切な天然記念物を踏んづけちゃったな」
 踏まれても音一つ立てない、苔のおとなしさが、洞いっぱいにみちみちて来るのが感ぜられます。何か声を出せば、私たち肉食獣の粗暴さが、三方の岸壁から撥ねかえってくる気がする。光っているあいだのひかりごけは、いくらか、威厳も認められますが、苔そのものは、絨毯や畳、毛布、その他平凡な敷物の、むしれたり毛ばだったりしている部分に似て、それよりも弱々しい生え方をしています。永い年月、生きのびて来た植物の古強者らしい根強さは全くなく、どんな生物も捨て去った場所に、誰の邪魔にもならず、薄い層として置かれたままになっている。生きんがために策略をめぐらす、蘚苔類の奇怪な生き方を、無気味に押しつけてくる気配もありません。
 どんなに私の視力が鋭くても、また私の検査が手なれて来ても、洞内一面に、はなやかな光の花園を望み見ることなど、できはしないのです。あるわずかな一角が、ようやく光の錦の一片と化したと思うと、すぐ別の一角に、その光錦の断片をゆずり渡してしまうのですから。しかもその淋しい光が、増しもせず強まりもしない、単純な金緑の一色なのですから。


  武田泰淳ひかりごけ新潮文庫、171頁〜173頁


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