水際の旅、小島剛一さんと共に


「闘う言語学者」こと小島剛一さん、襟裳岬にて。


先週のこと、昨年秋に交わした約束通り、ストラスブール在住の言語学者、小島剛一さんが北海道にやって来た。新千歳空港の到着ロビーで初対面の小島さんを出迎え、挨拶もそこそこに、小雨模様の中、道央自動車道日高自動車道を疾駆して二風谷へ向かった。沙流川の河口に降り立ったときには雨は止み、私たちは生温い潮風に吹かれ、間断なく打ち寄せる白波の音に包まれた。驚いたことに、小島さんは北海道に降り立って数時間後にはもう北海道の懐にすーっと入り込んだように見えた。小島さんにとって北海道は五十年ぶり、しかも札幌止まりでほとんど記憶にないという。ところが、私が案内したどの土地でも、初めて来たとは思えない、過去に来たことのある土地を懐かしむような表情を浮かべ、記憶の底を探るようにリズミカルに手を動かしながら、じっくりと味わうように噛み締めるように歩いていた。


五泊六日という限られた時間のなかで、私は北海道の海岸線を反時計回りにほぼ一周する計画を立てた。太平洋、根室海峡オホーツク海宗谷海峡、利尻水道、日本海を右手に見ながら、あるいは感じながら、幾多の川を渡り、幾多の岬や半島を巡り、幾多の湖や沼や湿原を掠めながら、北海道をいわば水の相において体験する旅、つまり、北海道が大洋に浮かぶ島に他ならないことを体感する旅をもくろんでいた。折しも接近していた台風の深刻な影響を寸前で躱すことができたのは幸運と言うしかなかった。霧多布岬や納沙布岬の視界を遮る濃い霧や靄も、熊の湯の露天風呂で浴びた土砂降りのにわか雨でさえ、水の祝福を受けているように感じられた。


水だけではなかった。とくに斜里岳の麓の宿では強烈な風にも見舞われた。滞在中雨まじりの強風は止むことはなかった。標高1500m余の斜里岳から吹き下ろす湿った南風は、広大な枝豆畑を捲り上げ、白樺の防風林をなぎ倒してしまうのではないかと心配になるほど強かった。ところが、それは地元の人にとっては「そよ風」程度のもので、自転車を吹き飛ばす本物の強風が吹くことも珍しくないと聞いて驚いた。風は草木という楽器を吹き鳴らして、歓迎の音楽を奏でてくれているのだと思えてきた。


道中多くの温泉に立ち寄った。温泉に浸かりながら、地下の熱、自然の火に間接的に触れているような気がした。旅の後半には幾多の隧道と覆道を潜り抜けた。しばらく走っても出口の光の見えない長い隧道の闇のなかでは、墓穴か冥界へ通じる道を走っているような気がしたものだった。こうして、水を強くイメージして始まった旅は、具体的で多様な水と風と火と土、つまり自然の四大元素(the four elements)を全身で感受する旅にもなった。


さて、道中小島さんと交わした会話の話題は言語学をはじめとする学問、音楽、宗教、政治、経済などから過去の旅や各国の人々の暮らしの細部(小島さんが歩いたことのないのは大陸では南極だけ、国家では北朝鮮とアフリカの数カ国だけである)、さらには道中目にした看板や表示や旗や幟の日本語表記や併記される英語の基本的な誤りにいたるまで縦横無尽に多岐にわたった。と同時に内容的にも非常に刺激的だった。それについてはいずれ別の機会に書くことになるだろう。


特に印象深かったのは、別れ際に交わした会話だった。私が「どこも故郷」と言ったのに対して、小島さんは半音下げるように「どこも異郷」と静かにちょっと寂しげに呟くように言った。それに関連して、小島さんはすでに日本語だけが母言語ではない多重言語者であり(小島さんは行ったことのある国や土地の言語を必ず習得し、生活に困らない程度に話せる言語はいくつあるか数えたことはないという。百は下らないのではないか)、複数の、少なくとも四つ以上の言語が同時に母言語になっているが、そうなった瞬間に一体何が起こったのか説明することはできないと非常に意味深長に語った。それを聞きながら、私は言語という島がいくつも浮かぶ見たことのない海を想像し、いわば言語の水際をイメージしようとしていた。とにかく、小島さんは国家や国語から本質的に自由で危険な領域に気がついたら飛び出していて、その代償として途轍もなく孤独な、とはいえ、楽しくもあり、幸福ですらありうる現実を生きているように感じたのだった。


下はムービーではなく、道中私が撮影した写真からこの旅の雰囲気を伝えるのにふさわしい約四百枚を選んでスライドショーに仕立てたものである。登場人物、立ち寄った主な場所、出会った動物は下記の通り。BGMをつけるとすれば、坂本龍一さんの‘flower is not a flower’か。



登場人物

  • ストラスブール在住の言語学者、小島剛一さん
  • 沙流郡日高町豊郷の宿「夢民村」の主、福原清一郎さん、喜代子さんご夫妻
  • 厚岸郡浜中町湯沸の宿「えとぴりか村」の主、片岡義廣さん
  • 斜里郡清里町向陽の宿「風景画」の主、山下健吾さん
  • 枝幸郡浜頓別町クッチャロ湖畔の宿「トシカの宿」の主、吉沼光子さん
  • 「トシカの宿」で同宿した川崎からバイクでやって来た花農家を営む青年、吉垣さん
  • 増毛郡増毛町弁天町の宿「ぼちぼちいこか増毛館」の主、平戸一休さん


立ち寄った主な場所(写真は泊村まで)

 
出会った動物


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