いつもすでになつかしい


天野忠(1909–1993)の遺稿短編集『草のそよぎ』(編集工房ノア、1996年)に「なつかしいもの」と題した「ある老人同士の対話」篇が収められている。

−−ある老人同士の対話。
A 私ぐらいのとしになると、生きていること自体が、なつかしうて、なつかしうて、死ぬなんてことは考えられませんよ。
B そりゃ、あなた、半分ぐらい死んでいるからじゃないですか、そうですよ。
A そうですかねえ、半分ぐらいねえ……
B だから、半分の、生きている方を見て、なつかしうて、なつかしうてになるんですよ。
A あなたはなつかしい気持ちはないのですか、私みたいな……
B ありませんねえ。この年になってもまだ私は一生けんめいがん張っていますからねえ。
A といってあなたは、私同様、何もせずに一日中ぶらぶらしてられるようにお見うけしますが……
B とんでもない。これでもとてもいそがしいんですよ。ぶらぶらしているように見えるのは、ぶらぶらとしか足が動いてくれないからですよ。心は矢のように走っているんですよ。
A 心が矢のように走ってるって、どんな心が?
B どんな心って、そりゃあ、あなた、お見せするわけにはいきませんよ。とにかく、大急ぎで探しているんですよ。どんどん矢のように走って……
A 何を探していらっしゃるのです?
B きまってるじゃありませんか。あなたのおっしゃった、この世でのなつかしいものをですよ。
A ……
B いまのうちに探して見つけておかないと、生きている半分も死んでしまいますからねえ……もう直ぐ、あなたと同じように。
A ……(溜息を吐いてあたりをソッと見る)


B老人の浮き足立った言葉が、A老人の受け身の応答と沈黙に飲み込まれる。ゼノンのパラドクスを彷彿とさせる禅問答のような対話であるが、行間には乾いて温かい風が吹いているようにも感じられる。


生きることは小さな死のレッスンの連続のようなもので、あるとき人は否応なく比較的大きな若さの死にも直面する。それをしっかりと自覚し、丁寧に弔うことのできた清岡卓行のような作家は、文学の若さの終わりを「マロニエの花」に託して語り、五月の爽やかな風にそよぐ葉桜に「人生とはこんなに懐かしいものだよ」と語らせることができた。生きる時間や運動を空間的に半分にすることはできない。いつもすでになつかしいはずの人生だから。


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