島尾敏雄と相馬焼


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島尾敏雄は相馬焼の湯呑みを愛用していたという。私の祖父も、あの大きな二重の作りの湯呑みを愛用していたことを思い出した。幼かった私はその側面に穿たれた穴に得体の知れぬ怖さを覚えた。

 おとうさんの故郷は福島県相馬郡小高町で、江戸川区小岩の家には、濃い緑色と下半分が茶色の相馬焼きの湯呑みや、三年味噌だとかいう塩辛い黒い味噌、たくさんの種類の豆餅や緑色の草餅などがあって、北国の田舎の青カビのような、懐かしいともそうとも言えない、肌にへばりつくような香りを振りまいていました。
 そういえば、四人が小岩を遠く離れて暮らすことになった昭和三十年代の奄美大島では、納豆は勿論、おとうさんの好きな黒い三年味噌も色も塩分も濃い味噌汁も、煎餅やそばや寿司さえ、島のどこを捜しても、影も形もありませんでした。
 

 器の周りに空気を閉じ込めて、中に注がれたお茶が冷めないようにという工夫なのか、袋を重ねた具合に周りが二重になっている、その手の込んだ細工の、おとうさんが手にする相馬焼きの湯呑みは、神戸の家でおじいさんが愛用していたものにそっくりでした。
 どうやらそれは「二重焼」と呼ばれているものらしいのですが、湯呑みの側面には洞窟の入り口のような穴が穿ってあり、洞窟の奥には小さな庵が見えていて、山水画のような幽玄世界を蓄えているのです。ちゃぶ台にそれが出されると、幼児の私はその洞窟から何かを学ぼうとするかのように、思わずじっと眺めてしまうのでした。
 江戸末期には百数戸の窯元が黒煙を上げるほどの隆盛だったのだそうですが、だいぶ寂れたまま、現在に至るといった感じです。
 何十年も棚晒しになっていたような、売れ残りのなかには、この辺りが賑わっていたであろう時代のザワザワした気配がこびりついています。


 四人が奄美大島で暮らすようになってからも、豆餅や草餅などが祖父の姪が小高で経営する井戸川商店から、冬になると送られてくるのでした。お餅は、お煎餅のように薄く切って乾かし、カリカリになったそれを練炭や炭で焙ると、とても香ばしくて、節分の大豆とお正月のお餅を一緒に食べているような、焦げ目をつけるとお煎餅のようでもあり、二倍も三倍も得をしたような気持ちになれる、楽しい食べ物でした。

  島尾伸三『小高へ 父 島尾敏雄への旅』(河出書房新社、2008年)、32頁〜34頁



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『検証 島尾敏雄の世界』に収録された年譜によれば、島尾敏雄の父母はともに小高町出身であるが、島尾敏雄自身は横浜市戸部町で生まれ、小高町には六歳の年に病気療養のために一年ほど過ごしたにすぎない。しかし、島尾伸三が「おとうさんの故郷は福島県相馬郡小高町で」と断言するほど、島尾敏雄の小高への愛着は非常に強かったわけだ。


福島県相馬郡小高町(現在の南相馬市の小高区)はいうまでもなく東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所事故によって甚大な被害を受けた土地である。島尾敏雄が愛用した湯呑みをはじめとする相馬焼(大堀相馬焼)の生産地である福島県浜通り双葉郡浪江町大堀は警戒区域(避難指示区域)にあり、窯元もスタッフも避難生活を続けているため、生産活動は休止を余儀なくされている。


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