遠島する愛1:奄美自由大学体験記17

記憶と時間に関する私の稚拙な探究は初め大きな半径の螺旋を描いていたようだったが、次第に半径は小さくなり、ついにある一点の周囲を高速に旋回し始めたようだ。奄美自由大学参加から1ヶ月が経った。名瀬の古書店奄美庵」で迷わず買った『島尾敏雄非小説集成(全六巻)』はずっと机の上にある。珊瑚の死骸と宝貝もそのままだ。

島尾敏雄非小説集成1』の「奄美大島から」(昭和30年)をまた読み返した。妻(ミホさん)の病を天啓のように感受した38歳の島尾敏雄さんが「日本」を捨て、「奄美」に渡る前後の心の滾(たぎ)りが手に取るように伝わって来る素晴らしい文章である。今の私にはそのままでは当てはまらない要素は少なくないが、しかし火急の真実がそこには定着されていると強く感じている。

沖縄航路の船に乗り込んで十月の中旬横浜の高島町岸壁から本州島を離れた。私と妻は長い間入院していた病院からまっすぐどこにも寄らずに船に乗った。船が岸壁を離れはじめ、固定した岸壁に取り残され遠去かり行く九人の友人をみつめていると、彼らは私のうしろ姿を見ているのだという深い思いにかられた。

もうあるいは本州土の土を踏むことはないかもしれない。私は西南の離島のその中に私の全部を横たえる。その空の色、波のうねり、島山のかたち、そしてけしつぶの島々にとじこめられた島びとの受苦を文字に移しとらなければならぬ。そこには私の血の中に流れている東北の凍りついた不毛の領域を解きほぐし、やわらかな多産な部分に鋤かえしてくれる陽の恵みが惜しみもなく放出されているに違いない。しかも島の狭さと孤絶の姿が私の背丈に合い、本州島や九州島、四国島とは隔絶した言語や生活感情や風習が私の感覚を恍惚とさせる。私は日本の狭さ、画一の不毛地帯から抜け出すことができる!一層狭隘な離島に自らを遠島することによって!私は本州島らを異邦人の眼をもって見返すであろう!猫額の平地すら稀な季節風と台風とに吹きさらされ通しの離れ小島から草原や砂漠のことまでも考え返すであろう。岸壁と船との間に横たわりふくれ上がる距離は私をにわか仕立ての歴史家にする。私の頭の中でひとつの時代区分が出来上がる。しかもなお岸壁の上の九人の彼らは私らと本州島を、そしてまた私の歴史の中に異った二つの時代をつなぐにぶく光る蜘蛛の糸のように思えたのだ。
(中略)
それは------妻は外界の刺激を恐れ、それが日常生活に適応できないほどに高じて入院しなければならなかったのだ。眼にうつることごとくの現象は、病んだむき出しの神経には暗い因果としてしかうつらず殊に群れ動く人間の顔がいけなかった。また人間と人間の結びつきのなま臭さが神経の反応を促した。本州島には本州島の人間の顔付があり西南の島には西南の島の顔付がある。本州島の大都会の騒音の中で躓いたとすればその環境を構成する顔付に脅迫されることは止むを得ない。個個の雑多な顔付の中から抽き出されたかたどられた一つの忌むべき悪鬼の形相が、本州島の顔付となって頭脳のひだの中に食い込んできた。そして妻は故郷の島の顔付に囲まれた環境に救いを求めた。私は妻の願いに添わねばならない。その神経性の反応をなくすために医師の指導に従い、私は妻と共に長い間入院していたのだった。子供らを先にその島の叔母に預けて。

次第に反応がうすらぎ、日常の生活ができる日の再び取り戻せるのを祈ることが私の生活となった。暗い日が続いていた。清潔で執拗な妻の病める合理主義の前で私は火星人の如く醜怪であり、この私のことばは妻には通ぜず、妻のことばは微細なはしくれまでことごとく私の神経につきささり胸うちをふみしだいた。しかし私は何を捨ててもこの病める魂に寄り添う。彼女の発作時の悪鬼にひとときの安息もなく打ち負かされ通しでいながら、やがて訪れてくる反応のない平常の日々を待っていた。それらの日々はいつやって来るか。妻の反応で私があばかれ、一部が破壊しはじめると、破壊は次々に移り広がり、未来はふき飛ばされ、平静を保つことができない。交互に妻に反応のない均衡の瞬間はやってくるが、すぐ日はかげり、北風が蕭々と吹きすさぶ。あくなき繰返しの果てに妻の感覚は私の感覚に食い入り出す。私は四囲の顔付に妻と同じような反応を示しはじめた------そして私らは本州島を離れたのだ。

奄美大島は病みそして適応を失った私らをやわらかく包んでくれた。島は時なしに花が咲いた。花弁や葉は水を含み厚ぼたく色彩が濃厚に感じられた。空は冴えて青く、月明かりの夜空には入道雲が見られた。バナナやパパイヤが果実をつけていた。

町には一種の喧噪があった。にぎやかさが町の空気にひそんでいた。むき出しの感情が人々の顔からかげりを奪った。激情は人々をいくらかは軽薄にするが、陰にこもった意地悪は感じられなかった。なつかしい(ナツカシャ?)という感情が挙措の中にしみついていた。排他と団結がにぎやかに共存していた。陽やけして黒ずんだ顔と肉のひきしまった固い体つき。そして無邪気な事大性。言葉は極端に単純化されながら発音が逆に複雑化している独特のこの島の方言が、むしろ異邦のことばをきいている具合に私の耳をくすぐった。
(pp.23-25)

「日本」に対する妻(ミホさん)の反応に、ある普遍的なものの兆しを感受していらからこそ、島尾さんは、理由を書くまでもなく、「私は妻の願いに添わねばならない」、「しかし私は何を捨ててもこの病める魂に寄り添う」と言い切る。それはたんなる夫婦愛などではない。人間が失ってはならない何かを守るための「愛」である。島尾さんが「遠投する」ならぬ「遠島する」と激しく表現した愛の身ぶりは、今福龍太さんが奄美自由大学の最も深いテーマとして掲げる「放擲(ほうてき)する愛」に正確に重なる。