言語哲学入門

受講生の皆さん、こんにちは。
昨日観てもらった『記憶の彼方へ---デレク・ジャーマン ラスト・インタヴュー』は、ヴィトゲンシュタインとの関係を抜きにしても、色々と示唆に富む内容だったと思います。確かに肉体的には痛々しく感じられ、苦しそうに見える場面もありましたが、エイズに侵され死期が迫っている(死の半年前でした)とは思えない、彼の「心の軽快さ」が感じられたでしょうか。エイズという病いと「闘う」のではなく、「共存する」、包み込んでしまったような心境、心の世界に触れたことは重要です。

映画『ヴィトゲンシュタイン』は前半しか観られませんでしたが、インタヴューで語られていたこの映画の「ユーモア」、「コメディ」というテイスト(味)は十分感じられたと思います。漆黒を背景とするミニマルな書割り的舞台で演劇のように演じられる短いシーンの小気味よい連続。そしてセサミストリートさえ連想させる奇抜なアイデアに満ちた映画です。人間ヴィトゲンシュタインと彼の周囲の友人たちにまつわる史実に基づいた一連のシーンを一方に配し、他方には子供のヴィトゲンシュタインによるナレーションと緑の火星人との哲学的会話が絶妙に配置されていました。授業でも少しだけコメントした通り、田舎の小学校教師時代のエピソードだけは史実に反していました。また、ヴィトゲンシュタインの著作から数多くの命題や議論が引用されていますが、『論理哲学論考』以上に彼の死後出版された『哲学探究』からの引用が見られました。『哲学探究』についてもいずれ解説する予定です。

さて、前日記で触れたジャーマンの映画哲学、すなわちこの映画はヴィトゲンシュタインを「描いた」のものではないという考えを再認識することができましたか。いうまでもなく、映画をどう観るかは観客一人一人の自由に委ねられています。ジャーマンの考えに逆らって、あくまでこの映画を実在した哲学者ヴィトゲンシュタインを描いた映画として観て、その出来具合を評価したっていいわけです。上の段落の私の記述はむしろそういう観方に基づいていますよね。その観方の方が一般的なわけです。しかし、そういう観方だけでは見逃してしまう大切なポイントが確実に存在するのです。それが、ジャーマンの言う「そこから(何かが)始まる」べき、彼にとっての映画の「ロジック(論理)」なのです。

明白すぎて捉えにくいかもしれない事実ですが、映画の中に登場するヴィトゲンシュタインは映画の中にだけ「存在する」のです。ところが私たちはそれを実在したヴィトゲンシュタインを指示する記号とみなしがちで、思わず、映画の外の現実世界に史実やらの根拠を求めようとする。しかし、そんなことは映画にとっては何の意味もないし、それでは映画を「見た」ことにはならない。スクリーン上に造形される存在を他のものの記号とみなすのではなく、そこに端的に存在するものとみなすこと。つまり、「見る」こと。記憶によって、目の前のリアルから逃避するのではなく、リアルな映像に直面すること。そしてそこからあなた自身の物語を構築すること。ジャーマンの映画哲学とはそういうことだと私は確信しています。

ジャーマンのラスト・インタヴューのタイトルが『記憶の彼方へ』なのは偶然ではないと私は考えます。記憶とは色々な観方や考え方、常識、偏見、既存の物語、等々によって織りなされた、セイフティー・ネットのようなものです。その御陰で私たちはリアルなものの衝撃から心身を護っている。逆にそのせいで、目の前のリアルから眼を背けるということも起こる。(映画に関してだけでなく、言葉に関しても、そして人生の多くのことに関して、そういう二面性があります。)そのような「記憶」の「彼方」をいつも志向し、いわば新しい記憶を創造すること。「記憶」の向こう側へ突き抜けること。ジャーマンは自作の映画はそういう種類の映画であることを自負していたと思います。エイズに関してさえ、ジャーマンはエイズにまつわる記憶の彼方へ突き抜けたからこそ、あれだけ「軽快」でいられたはずなのです。

このような映像に関する思想は、ヴィトゲンシュタインの言語に関する思想の根本に繋がり、そして詩人の言語にも繋がります。次回は映画『ヴィトゲンシュタイン』の後半を観てから、そのあたりに切り込みます。