『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』

受講生の皆さん、こんにちは。

今回は、「オヤジのおせっかい話」、といってもかなり本質的な話をしてから、

1)メインの資料「グレーゾーン」を使って、現実世界から可能世界へ通じる言語の道について敷衍(ふえん)し、さらに、社会生活における議論の困難と重要性に関して論理的な観点からコメントしました。そして、

2)サブ資料「論理形式と論理空間」を使って、現実世界から可能世界にいたるステップについて詳しく説明しました。多くの人が「やっと、理解できた」と書いてくれましたが、特に、「事態」が曲者(くせもの)であり、事実から対象、対象の現実的な結びつきから可能な結びつきに移行する際に、私たちは「言語」を頼るしかないという点を再確認しておいてください。それは最終的には「事実」さえ、言語的に切り出されるものである、という主張につながります。ところで、ウィトゲンシュタインの有意味/ナンセンスの線引きに関して鋭い反応が多く、「納得できない。なぜなら…」と書いてくれた人も少なくありませんでした。嬉しいことです。この点に関しては「考えることができないこと」、ウィトゲンシュタインの言葉では「思考不可能なこと」(『論考』序文)の言語的身分というテーマで解説し、さらに議論を深める予定です。

3)前回やり残した抜粋資料(『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』)の内容的に一番の山場である部分に関する解説を急ぎ足でしましたが、やはり次回もう少し時間を割いて、詳しく解説しなおします。ポイントは一文が複雑な入れ子構造になっているという点です。「私は…感じる」が最も大きな枠で、その中に「あたかも…であるかのように」という中間的な枠があり、そしてその中で二つの文が順接している(A+B)。解釈上一番難しいのはBの文ですが、要するに、ある種の「言葉」あるいは「メロディー」を見いだす、ということです。ところで、有名な哲学者といえども、その日記が公開され、このように論理的読解の材料にされるのは、「悲しい」ことだと率直な感想を書いてくれた人がいましたが、私はそうは思いません。むしろこういう形でウィトゲンシュタインが格闘しつづけた人生という問題を私たちはより深く引き継ぐ、引き受けることになるのだと思います。そしてそれはウィトゲンシュタインに対するまだまだ途についたばかりの「供養」にもなるのではないでしょうか。その意味では「論理的読解」を単なるパズル解きのようにイメージしてもらっては困ります。そうではなく、最低限そういう読解ができなければ、さらに深い人間的真実にはとうてい触れることさえできない、ということを知ってもらいたいのです。

4)今日新たに配付した3つの抜粋資料に関しては、次回まとめて解説します。各資料を読解する大きな目的に関してだけ簡単に書いておきます。作家村上春樹さんのインタビュー記事については、「話し言葉」特有の主張の繋がり方、作家高村薫さんと中村うさぎさんによる「新・欲望論」については、評論的エッセイにおける作家の個性的な文体と論理展開の仕方との関係、そして『旧約聖書 創世記』の「1創造」については神話における論理の特徴について学びます。