「YouTubeについて(2)」の最後で梅田さんが触れているシリコンバレーのVC(ベンチャー・キャピタル)が持つという創業者の人としての「格と器」についてのデータベースについては、非常に重要な現実的な問題だと思いましたが、直前の記事で書いた問題とは位相が異なると判断して書きませんでした。が、少しだけ考えてみました。
その人間の「格と器」を測る基準は何か。これはシリコンバレー特有の環境、あるいはそこでのITベンチャー企業創業者にだけ関わる問題ではなく、日本でも、身近な場所で、自分が生きている現場でも普通に問われるべき問題だと思います。というのも、次のようなことが言えると思うからです。
ある組織のトップに就く人間の「格と器」はどういうものでなければならないか、という大事な問題を問うことを長らく日本人は敢えて避けてきた。それでも私たちは直感的にその人物の「格と器」を見抜くことができ、ある人物がその任に相応しい「格と器」を備えているか否かをちゃんと評価している。しかし現実には「格と器」は全く考慮されない人事がまかり通っていて、日本中要するに人として「尊敬できない」人物が尊敬されるべきポストに就いてしまっているという狂った事態が常態化している。それが日本のあらゆる場所に閉塞感を生むひとつの大きな原因にもなっている。
実は昨晩『六ヶ所村ラプソディー』を観ながら痛感したことの一つが登場する人々の正に「格と器」なのでした。鎌仲監督は立場の違う人たちを飽くまで公平にありのままに描き切っていましたが、そのありのままに映し出される人々の表情や言動のひとつひとつからは、「真実」としか言いようのないような一人一人の人物の「格と器」が如実に露呈しているのでした。文句なく「尊敬できる」人は、鎌仲さんがいう「誇り」を失っていない人たちでした。
梅田さんがシリコンバレーで注意深く観察しているVCの「格と器」のデータベースの中身が「誇り」と言えるものなのかどうか、もしそうなら……、もしそうでないなら……。今後の梅田さんの続報が楽しみです。
(蛇足)かく言う私自身はどうかと言えば、「格」は破れ、「器」は壊れているような気がします…。