ブログが縁で、『横浜逍遥亭』の中山さんと知り合い、HASHIこと橋村奉臣さんとも知り合うことができ、今月末私は東京都写真美術館を訪ねることになった。すでに触れたことだが、中山さんが橋村さんを称して使った言葉、英語の"pure"が、ずっと私の心の中で、不思議に輝き響き続けている。クリスタルが触れ合うときの音のような、鋭く、儚い、脆い音。
私は迷いながらこのブログを続けて来て、『横浜逍遥亭』に出会って、ブログの秘めた可能性に気づかされた。それがなければ、止めていたかもしれない。少なくとも現在のようには書き続けてはいなかったのは確かだ。私がその時気づかされた可能性こそ、まさに"pure"ということだったのだと、今になってはっきりと分かる。
日本語の純粋とか無邪気とかとは次元を異にする英語の"pure"。中山さんが全身の細胞に焼き付けるように感じ取った実際にお会いになった橋村さんが死守なさってきた"pure"。それは、この世に生き延びさせることを多くの人が断念せざるをえないような、よほど注意深く、繊細に、強固な意志で守り続けなれば、すぐさま消えてしまうような何かだ。
私が惹かれ続けて来た詩人が体現しているものも、そんな"pure"であることに気づいた。
もう少し、語れるだろうか。それは自分を偽らずにさらけ出す勇気が湛えるクオリアのような気がする。
私は『横浜逍遥亭』の毎日書き継がれる文章に接する度に、襟を正し、己の強がりや虚栄や性急さを静かに反省するのだった。私にとっては、『横浜逍遥亭』は己を映し出す鏡のような存在であり、そうであるのは、そこに"pure"が生き延びる場所がしっかりと作られているからであると思う。