写真を検索する必要はどこで生じるか?

今朝はちょっと急いで朝の定番の散歩コースを辿った。急ぎ足で20分くらい。それでも18枚写真を撮った。それらを見ながら、いつもここにアップする際にどんなタイトルを付けようか迷っていたことを思い出し、改めて写真を検索する必要性と検索に必要な「タグ」の意味について考えていた。下の14枚には最近の私の世界認識の特徴が露骨に反映したタイトルが付けられたのだが、それらはあまりに偏向した意味づけなので、あくまで私が私が撮った写真を検索する際にしか役立たないタグである。ちなみに、それらのタイトルを併記してみた。

廃墟

廃墟

円熟

円熟

自然芸術

自然芸術

成熟

成熟

成熟

成熟

成熟

成熟

芸術

未熟

写真はすべて3台のMaciPhotoに取り込んでいる。家と研究室のデスクトップ、バックパックに入れて持ち歩き教室にも持ち込むラップトップの三台である。三台すべてにSmartCalendarがインストールしてあり、iPhotoに連動しているSmartCalendarを起動すればいつでもどこでも過去に撮ったすべての写真を様々な形式で見ることができる。

写真はiPhotoからSmartCalendarに読み込まれると、「撮影年月日時」が自動的に「タグ」になる。追体験は、カレンダーの時系列に沿って並んだ写真のサムネイルを年月日時の四つの異なる周期それぞれで一覧するか、まとまった量の写真を一気にスライドショーで見るかしている。スライドショーの写真もいうまでなく時系列である。こういう見方は、一見「受動的な検索」に思えるかもしれないが、実はすでに「撮影年月日時」という「時間のタグ」がつけられ、時系列という秩序の下で見ているので、無自覚かもしれないが、立派な「能動的検索」であると考えたほうがいいと思っている。
これは時間が人生の最も基本的な秩序であることを見抜いた美崎薫さんの見識が反映されているのだと考えたい。従って、私の場合、今のところ必要な写真の検索に関しては、「時間タグ」さえついていれば、時間にそった追体験ができれば、それだけでかなりの成果があるので、十分だと思っていた。

他方、写真を撮り続ける中で自分に生じた見るもの見えるものの変化の重要性に気付いた私は、その記録をブログに写真と言葉で残しはじめた。この「写真-文章」のペアからなるエントリーは私の体験の貴重な記録であり、後のさらなる追体験の材料にもなる。それには「タイトル」がつけられている。写真は私の知覚の変化を示す証拠写真としての記録であり、テキストはその体験を写真を見ながら追体験して分かった意味の記録である。その意味とは主に世界の認識の深まりの証言のようなことである。エントリーには「タイトル」を付けるが、これは文章の内容の中心的キーワードになるようなものである。このタイトルはある意味で写真への「タグ」でもありうるが、正確には文章の「タグ」であり、写真はむしろ文章への「(メタ)タグ」のように機能しているような気がする。つまり、写真をみれば、文章の内容を想起できる。

bookscannerさんは

写真は、色や形などで構成されているので、比較的短時間に、私たちが処理できるんだと思っています。ところが、本となると1ページに数百の文字があって、内容をだいたい理解するのだけでも、特別な速読術でも身に着けてない限り、結構時間がかかります。だから、逆にそのページを代表(represent)するような写真をはっつける、とかしたいですよね。(「マスク付け」とでも呼ぶんでしょうか)

と書き、美崎薫さんも、

本で、イラストが入っているものがありますが、それは一覧したり、ぱらぱらめくったときに、目に留まります。ということは、やっぱり画像のほうが、情報が多いということなのでしょうか。シェークスピアの戯曲に、舞台の写真を組み合わせたりすると、すごく能動的になるかもしれません。

と書いているが、私の「メタタグ」は、bookscannerさんの「マスク付け」、美崎さんの「能動的」に相当するのだと思う。

写真とテキストの根本的な差異は、写真には分節が存在しないということだと思う。写真は一なる全体として存在するので、意味に還元されない、あるいは逆にどんな意味づけをも受け入れる。

写真はそのままで、おそらく、人生、世界の「メタ・タグ(超タグ)」なのではないだろうか?だから、写真に言葉でタグづけすること、意味付けすることは、写真を限定する、形式化することになり、写真の本来性を阻害し、思わぬ想起や発見を妨害することにはりはしないだろうか。

しかし、美崎さんは次のように書いていた。

画像は検索より「見ること」のほうが価値が高いです。というか、そもそも画像をどう検索するのかは、まだわかっていないんじゃないかと思うのよ。ただ、タグをつけておくと再検索できるというのはたしかです。

「写真は探すのか?」ですが、探します。たとえば「小首かしげて」という描写がわたしは好きなのですが、そうすると「小首をかしげ」た写真を探したくなります。あるいは「月モチーフ」、『ドラゴンヘッド』と『ヌバ』(レニ・リーフェンシュタール)とか。

これは、やはり美崎さんが相手にしている「画像」の種類と数の桁違いの多さが、「タグ」を必要とする異次元に突入しているんだろうなと思わせる。「小首かしげ」た写真を探したくなるに類した欲望を私は持ったことがないなあ。

ただ、数ヶ月前に、Flickrで、「Child」と検索して数十万件の写真がヒットして、もちろん全部は見なかったが、数百枚見ただけで、「これはネット上の『Child写真集』だな」と感心したのと同時に、その中には「Child」には全く相応しくないと思える写真がかなりあって、そう感じたユーザーがタグを変更するということが積み重なっていけば、CrowdSourcingじゃないが、使えるタグになっていくかも?と想像したことがあった。美崎さん、それはやっぱり無理ですか?