中山さんの美崎邸「記憶する住宅」訪問記2

美崎邸「記憶する住宅」訪問記の後半、中山さんの筆は、美崎薫氏の生き様を深い所から遺憾なく捉えていて非常に読み応えがある。すぐれた現実的な描写を堪能する喜びに加えて、最後には超現実的な発見の瞬間に立ち会ったような驚きさえ覚えた。

2006/11/04 (土)『記憶する住宅』に美崎薫さんを訪ねる(2/2)

全部引用したいくらいだが、中山さんの独奏に勝手に伴奏してみたい。括弧(「」)はすべて中山さんの言葉である。

美崎薫さんに対する私の第一印象そしてずっと消えない印象もまた「軽やかに今を切り開いている」だった。「“軽み”を抜きに美崎さんは語れない」ことを、そしてそこに「美崎さんのパラドックス」、つまり秘密があることを私も強く感じていた。もちろん、ただ「軽い」わけでは毛頭ない。真に、確信犯的に(?)「軽やかに生きるために、重たい実践を生きる」ということが大前提にある。それを踏まえた上で、HASHIさんの"pure"に相当するような"light"感、Angelのような「軽さ」が美崎薫さんの言動には感じられたと言いたい。

美崎さんは自分の資質と気質に対して率直に生きるている人だ。そのためにまなじりをつりあげることなく努力を続ける。結果として表れてくるのが、この人ならではのオリジナリティだ。

この何気ない記述の裏には、私を含めて多くの人は自分の資質と気質に対して率直には生きていない、生きられないという苦い認識が控えている。普通、自分の資質と気質に対して少しずつ率直になっていくプロセスが人生なのかもしれないが、美崎さんの場合、そしてHASHIさんの場合には、最初から「率直」であり続けたところが尋常ではない驚くべき才能なのだと思う。

美崎さんの生き方それ自体が作品なので正直なところ捉えがたいところが大きい。さらに言えば、「忘れる」という自然の摂理に真っ向から挑む美崎さんの姿勢に「それは悪魔の所作ではないか」と感じる者がいても何ら不思議ではない。しかし、科学や技術のパラダイムが変化するときに、こうした拒否の感情が先に立つのはこれまでもまま起こってきたことだ。美崎さんの姿勢が不自然だと言って一笑に付すのはフェアではない。

「記憶する住宅」の実験の意義が、「『忘れる』という自然の摂理に真っ向から挑む」ことにあることを見抜いた中山さんは、そういう試みに対する世間や旧体制の免疫拒絶反応のような「拒否の感情」をも解除するような暖かい優しい手つきで大きな時代の流れへと読む者の心を導くのに成功している。

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安易に「忘却」に依拠するような思想が一方にはあり、また「忘れる」ことでかろうじて「今」を生きることができる場合もあることを美崎薫さんは熟知していた。したがって、「忘却」に徹底的に抗する「記憶」の実験を不用意に応用することには美崎薫さんは極めて慎重な姿勢を崩さない。しかし相手が大国のようなグーグルとなれば話は別だ。グーグルによる自動化された非忘却システムは、かつてナチスドイツが開発した個人の記憶抹殺システムと奇妙なねじれをともなって表裏一体と化したメビウスの帯のようにして、私たちの意識の底に不安なノイズを掻き立てている。その正体を見極めるための捨身の実験が「記憶する住宅」である。それは普通は心の安全弁として機能してくれるような「多様性」、「偶然」、「見通せなさ」、「驚き」などに見離されて「すべてが見えてしまう」ことで心が「血を流し続ける」ことを覚悟した上での実験である。それは『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインが立っている場所に酷似している。

と、ここまで書いて、ふと窓の外、東側の空に目をやると、なんと虹が立っていた。驚いた。あわてて、ベランダに出て、シャッターを切った。

美崎さんが流し続ける血が虹になって立つという幻想を見た気がした。いや、幻想ではない。