サボテンと半島

今となっては確かな素性は分からないのだが、おそらく父が二十代のころに撮ったと思われる半世紀以上昔の二葉の小さなモノクロ写真を机の片隅に置きっぱなしにしてずっと(二ヶ月くらい)見ている。

サボテンの二輪咲きはとても珍しかったに違いない。明るい日差しのなかでサボテンの花が精一杯に咲き誇っている。と同時に窓ガラスに映るサボテンの花の薄い影や鉢とサボテンが手前に落とす濃い翳が気になる。なぜか「寂しい」印象がある。

これはアングルが異常だと感じた。こんな角度から波に激しく洗われる防波堤を見た事がない。立っている場所や背後の景観が不明なので、沖の方向も定かではないが、海に正面から対しているようには感じられない。真横ではないにしても、斜交いに見ているようだ。そして右前方から防波堤を完全に飲み込みそうな高波が迫っているのが見える。激しい波音さえ聴こえてきそうだが、一体どんな心がこんな写真を撮ったのか。かなり荒れていたのか。でもしばらく見ていて気になり出したのは、防波堤が届かんばかりに見える、海に突き出した半島の姿だった。どこの半島だろうか。

写真を見るとは何をすることなのだろうか。中山さんは私の写真への関わり方を色形という「見えるもの」よりも「見えないもの」、つまり「意味」に強く傾斜したものであると鋭く指摘してくださった。確かに、そもそも私は写真の出来は度外視して、撮るという行為に深くはまっているようだ。だから、自分で撮影するときには、敢えてフレームやアングルを気にしないようにして、ブレやボケやレンズの水滴をも厭わずに、その日の散歩の調子のままに撮り続けている。毎朝歯を磨くように、私は毎朝写真を撮っている。

他方、自他が撮った写真に対しては、撮影時の心と世界の有り様をなんとか言葉にしようとする。また撮影者が意図せざる、無意識の痕跡のようなものを感じ取ろうとする。上の二枚の写真に対しても、これらを撮影した時の父の心と世界の景観を想像すると同時に、父の意図や意識を超えて写ったものをとらえようとしている。