「ひっかかり」の閉鎖にひっかかった

楽家坂本龍一さんがblog「ひっかかり」を止めた。驚いた。残念だ。

「ひっかかり」は坂本さんならではの思想と実践に基づいた非常にスマートな情報シェアのblogだった。「グローバルに考え、ローカルに実践する」を身を以て継続してきた坂本さんが発する情報や意見に、目を見開かされたり、行動を促されたりしてきた。今年の春には、PSE法の問題、青森県六ヶ所村核燃料再処理施設の問題では、「ひっかかり」の情報をきっかけにして、私は行動を起こしたのだった。そのお陰で、ドキュメンタリー映画六ヶ所村ラプソディー』を観て、鎌仲ひとみ監督にお会いすることもできた。「ひっかかり」との出会いは私に、blogは大きな可能性を秘めたメディアであることを教えた。

坂本さんが「ひっかかり」を止めたのは、「blogというかたちで不特定多数(多数じゃないかもしれないけど)の人と情報や意見をシェアすることに疑問を感じ」たからだという。私はこの理由の言葉にそれこそひっかかった。「続けるのがしんどくなったから」とか「もう十分に役割を終えたと思ったから」とかいう理由なら、あ、そうかと納得しただろうが、どう読んでもblogに対する否定的な認識がそこには籠められてることは疑いえない。

しかもここには、blogがなくても十分やっていけるからというblogにとっては外的な理由ではなく、blogというかたちに存する問題、blogにとって内的な理由が示唆されていて、ひっかかった。しかも、そのポイントは「不特定多数の人」、「シェア(共有)」という言葉に籠められているようで、見逃せないのは、それらはblogを含めたウェブ進化の行く末を占う要(かなめ)になる言葉ではないか。

不特定多数の人を信頼し情報を共有することによって新たな「価値」を創出すること。これがウェブ進化の思想とでもいえることである。私は基本的にそれを信じている、信じたいと思ってblogもやっている。

それに対して、坂本さんは「疑問」を感じた、という。その疑問は形式的には、すくなくてもblogという形では、不特定多数の人と情報をシェアすることによって、新たな価値は生まれないと判断した、と表現されるかもしれない。そうだとして、しかし、そう判断した「理由」は明らかではない。それは有名人の坂本さんだからこそ起こりうる様々な事態故の理由だったかもしれないし、もしかしたら、もっと普遍的な理由だったのかもしれない。もし後者だとしたら、いずれ私もその疑問に逢着するだろう。仮定だらけ(笑)の話だが。

もちろん、blogに対する思い入れや使い方は千差万別である。私はかなり非常識な思い入れで非常識な使い方をしているが、今のところ、blogを止めるつもりはない。しかし、考えておくべきことを坂本さんの「blogやーめた」は示唆していると感じる。

blogという形での情報や意見の共有に潜む落とし穴ってあるだろうか。blogという形で情報や意見を共有することで失われるものってあるだろうか。blogという形での情報や意見の共有から守らなければならないものってあるだろうか。それがあるとすれば、一体何か。そんなことまで考えさせられてしまった。まいったなあ。

それは「共有」と対立するかに見える「私有」すべきものであるかもしれないが、むしろblogという形ではない形での「共有」ではないかと感じる。そこには当然、リアルな共有も含まれるだろう。リアルに共有すべきものが、blogという形での共有に侵されることへの疑問?

坂本さんがもしそう判断したのだとしたら、私としては、両方でちゃんと共有できるようにすればいいことじゃないですか、と言いたいが、そんな簡単なことでもないような気がする。

これは、共有/私有の問題をリアル/ネットの問題も踏まえてちゃんと考えておかないといけないな、と思った。

坂本さんがblogを止めた。かなり残念。でも分かるような気がしないでもない。それでも俺はblogを止めないぞ。とだけ書くつもりが、変に長くなってしまった。