煙突からサンタクロースが

今朝も電線に眼が行く。

そして煙突が気になり始めていた。


煙突のある家はおそらく築20年以上の家で、私の住む界隈では一世代前の人たちの住む家だ。20年前の家にはみんな煙突があったんだ。それで、サンタクロースを連想した。私が子供の頃住んでいた家にもそんな煙突があり、サンタクロースは煙突から入ってきて、寝ている間に枕元に用意した靴下にプレゼントを入れていってくれるという話を信じてワクワクしていたときの感覚はいまでも覚えている。普通の意味でサンタクロースは存在しないことを知った後も、サンタクロースを想像することに伴うワクワク感は完全には消えていない。なぜだろうか、と考えていた。

単に現実を知らなかったから、サンタクロースの存在を信じていたわけではなく、現実を知るようになったからサンタクロースの存在を信じなくなったわけではないのではないか。サンタクロースの存在を信じるということは、単に現実に無知なるが故に架空の存在を信じてしまうというあさはかなことではなく、むしろ全く逆に、詰まらない現実を豊かに生きるために必須な心の力の出し方を教える知恵なのではないか。

実際に単に現実をなぞることよりも、現実を超えることを信じて実現することの方がずっとパワーが必要だ。そのパワーを失って現実主義的になることが大人になることだとするなら、大人になることは詰まらないことでしかない。大人になっても、現実を超える何かを信じるパワーを持ち続けられる人こそが魅力的なはずだ。

今の我が家にも煙突はない。煙突のない家で我が子たちは育った。彼女たちは将来の自分の子たちにサンタクロースの物語を信じるパワーを伝えることができるだろうか。心の力を出す知恵を継承していけるだろうか。

それにしても、クリスマス・プレゼントを選ぶのは難しい。