私はなぜジョナス・メカスに惹かれるか

私がジョナス・メカスに惹かれ続けているのは、彼の非商業主義的映画、いわゆる独立映画製作の活動が日々の生活と地続きの膨大で断片的な記録の偽りや虚飾のない部分だからである。世界中の志の高い人たちがジャンルの垣根を超えて、メカスさんの元を訪れ、創造の勇気をもらい、またそれぞれの持ち場へと還って行き、すばらしい仕事をしてきたのは、メカスさんのやってきたことが、生きていることの真摯な記録、記憶という最も普遍的な地平で、四方八方に色んな種を撒いたからである。

そんな目に見えない、目立たない、フラジャイルでさえある、いわばメカス・ネットワークの日本的節目(node)を担ってきたのが、詩人の吉増剛造さんである。私はそのサブ・ネットワークのひとつのノードを担おうとしてきたような気がする。

時代や社会の変化は時代や社会を変えようとして起こるものではない。個人における目立たない変化の集積が結果的に時代や社会の変化となって現れる。社会や組織を変えようとする発想は本末転倒であり、個人が生活の質を深いところから隅々まで変えることが先決である。革命は個人の生活において静かに深く進められねばならない。

メカスさんも吉増さんも、生活の変革者である。彼らの生活とそのたゆまない克明な記録がそのまま地続きで、映画になり、詩になる。私は私で「今、ここ」を「どこでもない場所」にするかのように、毎日の生活を性懲りもなく記録している。私はメカスさんや吉増さんの生き様と作品にこそ「映画の微粒子」を痛切に感じてきて、それを学ぼうとしてきて、最近ようやく私なりの方法を自覚しつつある。たかが「記録」、されど「記録」。

技術の変化は作品の内容を変える、とメカスさんは昨日の記事で引用したインタビューのなかであっさりと語っていた。フィルム・カメラからデジタル・カメラへの移行は、作品の内容を変える。それだけのことだ。デジタルでできること、その可能性の極限を引き出すような作品をつくればいい。フィルム作品はフィルム作品、デジタル作品はデジタル作品。区別すればいいだけの話しだ。デジタルであることを否定する必要はない。もっと大きな技術の変化を人間はいわば経験の拡張として乗り越えてきた。デジタル化はその一環にすぎない。インターネットもまたしかりだと私は思う。

問題なのは、個人の生活の変化、個人の日々の意識の変化である。それを具体的に促す力、唯物論的な力を持つ記録こそが、すぐれた作品だと私は思う。

***


今朝は寒気が少し緩み、空気が湿り気を帯びていた。藻岩山も裸の樹もソフト・フォーカスに見えた。

子どもの遊具はなぜこんなに品のない原色使いの塗装なのだろう。赤、黄、青が子どもらしい色なんだろうか。子どもらしい色とはそんなものなのか。そもそも子どもらしい色なんて発想する必要があるのか。実際にも子どもたちの色彩感覚は、こんな配色の塗装に決めた大人たちより、もっとずっと豊かで多彩だろう。裸の鉄のままのほうがまだずっとましではないか。大人たちの「子どもらしい色」という誤った固定観念が一人歩きしている。そんな類いの観念が配色やデザインになってしまっている余りにも幼稚なケースが多すぎる。