開高健記念館

TagSightで登録している「記録」というタグ検索で「開高健記念館」がひっかかった。一瞬えっ?と思ったが、そうか、「記念館Memorial House」は記録する家、記憶する家か、と気がついて覗いてみた。「開高健記念館」に「記録」というタグ付けをする人はそう多くはないだろうと思う。こういうとき、フォークソノミー(不特定多数の素人による分類)はまんざらでもないと感じる。

茅ヶ崎市 開高健記念館
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/bunsui/kaikou/kaikouidx.html

そこに、作家の写真に混じって、やや唐突に作家自筆の科白(出典不明)の画像が置かれていた。サインで使った言葉だろうか。

明日、世界が
滅びるとしても、
今日、あなたは
リンゴの木を植える

入ってきて
人生と叫び
出ていって
死と叫ぶ

両方とも大げさなきらいはあるが、言いたい事は分からないではない。
最初の科白からは、現代では日常の暮らし全体を「リンゴの木を植える」ことに匹敵させることはますます難しくなっていると思った。二番目の科白は、主語が「私」だとすると死んだ私が「死と叫ぶ」という不可能なことを主張していることになるので、そうではないと考えて、例えば、逝った近しい者の「死」を深く受けとめること、生まれてきた我が子の「人生」を愛おしく思うことを通してしか、そういう迂回路を通してしか、人間は自分の人生と死にちゃんと向き合うことはできない、と理解することはできると思った。つまり、「自分の死」という超越や「自分の人生」という全体を私は直につかまえることはできない。他者を介したたくさんの迂回、回り道が必要だと。