バベルの塔:アメリカの友人からの薦め

私がブログをやりながら感じている「壁」のひとつは言葉の壁である。インターネットはグローバルなインフラだが、サイトもブログも実質的には言語的にローカルなままだ。以前梅田望夫さんとグーグルの最大の課題である「自動翻訳」の展望に関してやり取りもあった。若い世代が言葉の壁を思いも寄らぬ方法でブレークスルーするのではないか、と。

ところで、日本語を全く解さないアメリカの友人たちが、このブログを見ている。正に「見ている」。写真だけ。言葉は理解できなくても、写真は私の生活の輪郭を彼らにそこそこ伝えているらしい。「日本語は分からないけど、写真はチェックしているからね」。もちろん、生活の機微はメールで伝え合うしかない。

昨日、そんな友人のひとり、アメリカ滞在中に親しくなったMさんが、象徴的なメールをくれた。それは日本でも4月に公開予定の映画『バベルの塔(Babel)』を観たか、観なきゃいけない、という内容だった。

What about movies, have you seen "Babel" yet? It is very good and it does
have a part that takes place in Japan, you must see it!

映画そのものについてはまだ観ていないので何とも言えないが、「バベルの塔」、それはまさしく現在のインターネット上のコミュニケーションの俯瞰像の一面である。情報技術、情報といわれながら、バベルの塔=言語の壁によって、「情報」は島国化している。もちろん、島国の内側を掘り下げることを通して、ある種の普遍に到達することは可能である。しかし、とりわけ日本語の情報、日本語環境はほとんど孤立している、と日々感じてもいる。日本語情報だけで満足し切っていれば、そこがインターネット全体であるかのように錯覚してしまう。日本語の外は存在しないかのように。

ひとりひとりの人生に即して言えば、それぞれが己のテリトリー(縄張り)をどう自覚するかという問題だが、本人の自覚とは別に状況はグローバル化している。そこで内向きに開き直るか、外に開いて出るか、どちらに「未来」があるのか、ということが、特にITに関わる日本人に問われていると感じる。

言語を「透明な道具」だと思い込んでいる限り、言語の壁=バベルの塔は存在しない。バベルの塔の存在に気づいてしまった人は、言語が不透明な壁にほかならないことを知ってしまった人である。

最近驚いたのは韓国からのアクセスが少なくないことである。おそらく梅田望夫さんのブログ経由だと思うが、かつての留学生の教え子かもしれない。自動翻訳サービスを使って、言葉の壁を乗り越えている中学生だったら面白いな、と楽しい想像をしている。

私は言葉の壁を軽減するために半ば無意識に写真やビデオを多用しているところがある。茂木健一郎さんのように英語版ブログを別に立てるという手もある。しかし、それは日本語環境の孤立という事態を温存することになる。私としては、日本語環境を外部に晒すための工夫、日本語を解さない人たちを日本語環境に誘惑する工夫が必要なのではないかとどこかで感じている。そもそも言葉が違うということほど、知的に面白いことはない、とさえ思っているからでもある。

その意味では「バベルの塔」は嘆くべき状況ではなく、知的に最もエキサイティングな状況なのだと考え始めている。「言語が違うということの神秘」は「世界が存在すること自体の神秘(ウィトゲンシュタイン)」と等価ではないか。