文体と身体と触感の記憶

*1
あるアーティストの言葉に吸い込まれた。*2

体を小さく、横たえる。膝は胸に、指は足先に届くくらい、丸く。体は何かに接しているように。少しでもいい。心がどこかにおさまるように。きびしさの支配が表出させる光景。その体は真白い膜にうすく覆われている。呼吸をし、光や音を、誰とも知らずに声を受けとめるためだけにそこにいる。働きかけない。黙す。生まれる前の空間につらなっていく。生きたのち、と言ったとき姿する空間にもまた。そうしたところでしか訊ねえないことと、空の青。

まず、今朝の散歩で空の青に感じたことを言い当てられているようで驚いた。それから、この文体にはどこかで「触れ」たことがあると確かに感じた。触感の記憶。しかしなかなか思い出せなかった。

やっと思い出した。茂木健一郎著『生きて死ぬ私』(筑摩文庫)の解説「メスグロヒョウモンの日はきみにもあったでしょう」の文体だった。参った。こんな一節さえあった。

雲。それはすばらしくふたつとない美しさに生まれ、それはすばらしく形を変え、それはすばらしく流れ、それはすばらしく引き返すことのできない一点を超え、消える。

これもまた、今朝の散歩で特に「雲」に感じていたことだった。

内藤礼。名前はどこかで見たことがあった。ほとんど知らなかった。数冊ある著作はどれも版元品切れだった。

***

内藤礼の文体感覚から村松真理の文体感覚*3を連想した。その文体の感覚は身体感覚と重なっていた。

触れられることは自分で自分に触れることと同じだ。私はそんなことはわざわざしたくなかった。そんなことをしなくてもわかっていると思った。何人かの他人が成り行きで私に触れた後ではなおさらそう思う。驚くほど簡単な接触の先にはいつも、果てしない不毛の荒野が広がっている。私とは私が世界でただひとつ、絶えず抱いたり撫でたりして抱え込んで、放り出さずに歩き続けてゆきべき感覚と質量の総体だ。

身体という「他者」との関係を幾重にも畳み込み、深く抱え込んだ「独我論」的思想と文体。

2月21日のエントリー「危険は承知Britney's couragehttp://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070221/1172066335を書いた時に書かずに留保した肝心なことがあった。それはブリトニーはどうしてスキンヘッドにしたかと問われると「誰にも触られたくないの。触られるのにうんざりなの」と答えたという*4、その「触れられたくない」気持ちの根源だった。

村松真理の言葉はその意味と文体によってブリトニーの「真実」を説明していると思った。ブリトニーは驚くほど簡単な接触の先に広がる果てしない不毛の荒野にいた。そして「触れられる」ための装置と化した身体の特権的な象徴でもあった「毛髪」を切り落とし、さらに剃り上げた。ブリトニーはようやく「私」、「自分」の出発点に還ったのだ、メカスはそれを祝福していたのだった。もちろん、それはまだ「始まり」にすぎないかもしれないが、多くの場合、その「始まり」にさえつけないのだから、大いに祝福すべきことに違いない。

*1:文學界』8月号2006表紙写真。内藤礼「地上にひとつの場所を/Tokyo 2002」2002, rice gallery by G2, 畠山直哉氏撮影。

*2:内藤礼「from the artist」『文學界』8月号2006、327頁

*3:「ソースタインの台所」『文學界』8月号2006、115頁

*4:http://abcdane.net/blog/archives/200702/britn_hage_0702.htmlの情報源は不明。