毎朝、惰性ではなく新しい一日を始めることは難しい。本当は絶えず「始まり」を迎えているはずなのに。それでも、だから、メカスのように、毎朝私は苦めのコーヒーを入れて、「いつもの一日、いつものコーヒー!(Another day, another coffee!) ……されど……」と気合いを入れてから、散歩に出る。途方もなく「過ぎてゆく」ものにせめて挨拶くらいはできるようになりたい。
そう思っていたら、アーティスト内藤礼は「過ぎるもの」に変身する術について書いていて*1、驚いた。
過ぎるものを友にしたわたしは、過ぎるものの感じそのものになって、日に添い、日にじゅうぶんに開いてゆけるといい。それはどんなによろこばしいことか。朝わたしは朝になり、葡萄を食べるわたしは葡萄だ。闇のときわたしは闇に集められ、たゆたう暗さになる。鳥が鳴いたあと、そのひかりかがやく響きとなって山まで走り、雨の岩を流れる新しい水となる。そのどのときも生まれたばかりで、去るときだ。そしてそのどのときも、わたしの重さのなかでやすらう。
時間軸のなかに生身を浸すとき、身体じゅうで数億の目が開くのだ
すでに度重なる変身の末に数億の目そのものと化したかのような詩人吉増剛造は、その控えめな言葉*3とは裏腹に、実は恐ろしいことに、とっくに過ぎるもの=時間そのものに化しつつあるのかもしれないと思った。
一個の人間のなかに数億の目がある。それが、もしかしたら時間かもしれない……
数億の目とは、無数の傷であるだろう。歴史的時間の瓦礫のなかを縫うような映画的=神話的時間に「生身を浸すとき」、身体じゅうで抑圧されていた数億の目=傷が開き、血の時間*4が流れ出す。そしてそれは世界のなかの無数の島=傷に照応しているだろう。