ことばのからだ:村松真理「ピクニック」の文体

縁あって、『文學界』九月号に掲載された村松真理「ピクニック」を読んだ。

ことばにもからだがある。スタイル、スティルではない、「文体」。私が書くような意味と論理に引っ張られた文章にはまっとうな体がない。それは自覚している。文章の背後に生身の人間としての筆者を想像することが問題なのではない。文章そのものがもつ体の感覚のことが言いたい。不透明なからだ。決して見通せないからだ。どんな意味や論理の詮索をも跳ね返すようなからだ。批評なんてできっこない相手としてのからだ。触れ、嗅ぎ、聞き耳を立てることしかできない相手としてのことばのからだ。そんなからだを持つ文章を書ける人が作家というのだろう。それには年齢も性別も、もしかしたら経験もあまり関係ないのかもしれない。もちろん、普通の意味で、巧くなったり、洗練されたり、といったことはあるだろう。しかし、核は宿命のようなものではないかという気がする。幸か不幸か背負ってしまった宿命。

花の匂いがした。水に溶けたように薄く流れてくる。窓の近くに桜の木があるのだ。眉間が引きつり、軽い電流のように四肢に走った嫌悪感をばねにして上体を起こし、巻きついたタオルケットを振り落として窓を閉めに歩いて行った。今年は桜の開花が早く、四月になる前に散ってしまいそうな勢いだ。眼中にもないんだな、と思った。それどころではないのだ。他のどんな生物よりも敏くこの季節の訪れを知り、濃く重い樹液を温めたぎらせて固い肌の内をめぐらせ、毛細血管のような枝先から、若芽さえまだない裸の幹からも、薄紅色の迸りに換えて一斉に噴き出させるいまの桜は、見られていることなどまったく考えていない。どこを触っても焼き切れそうな、放恣で硬く閉じた自意識しかない。だから人間は気楽に、したいだけ外から眺めたり愛でたり、下で酒盛りをしたりできるのだろう。しかしその冷たい熱が、寝転がっているだけで皮膚がひりひりするいまの私には腹立たしかった。窓を閉めるときに散りこんで来て肩にかかった花びらを、火の粉を払うように叩いて落とした。外に出る気にはならなかった。(64ページ)

このような詩的感覚に溢れた散文が大きな特徴の「ピクニック」の文体に触れ、その匂いを嗅ぎ、その息遣いに聞き耳を立てていて、2007-03-24「別の宇宙が忍び来て Akiko YOSANO」などで引用した与謝野晶子の歌二首を連想した。共に、与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社)所収。

わが倚るは
すべて人語
の聞こえぬ
ところに立
てる白樺に
して

忍び来て夢
にも春の知
らぬまに矢
ぐるま草の
空色に咲く

「ピクニック」には、意識と言語を超えたところに存在する植物の一見閉じられたかのように見える実在に自意識を投影しつつも、植物的実在(モノローグ)には同調し切れない動物としての私の実存(ダイアローグ)の地平を振り返る身ぶりが横溢している。与謝野晶子が到達した、もの言わぬ、「硬く閉じた自意識」しかない植物の方へ延びて触れんばかりの想像力によってはじめて拓かれるいわば宇宙的なリアリティの地平。しかしその地平を否応なく傷つけて、血の滲んだヒューマンなリアリティを感じさせてくれるのが「ピクニック」の文体である。

ところで、「ピクニック」から与謝野晶子の歌を連想したのは、前者の文体の本質がおそらく歌に近いと直観したからだと思う。例えば、上に引用した桜の木への深い移入に基づいた自意識の亀裂の描写は、例えば、次のように歌化できるような気がした。

寄る辺なく
散り来し肩に
花びらを
春もろともに
叩いて落とす

村松さん、下手くそな歌でごめんなさい。