ウェブ進化の荒波を見事にサーフィンしているkotorikotorikoさん(id:kotorikotoriko)が、知らぬまに、また凄いことを始めていた。Yahooはもちろん、Amazonを手玉に取って、現在のウェブを舞台に、何がどこまでできるかを、徹底的に我が儘に(「全僕的に」)追求し始めていた。でも、そうであるからこそ、逆に、kotorikotorikoさんの試みは、よりよい人生を模索する多くの個人にとって色々なヒントに満ちている。
ウェブ進化と言われる変化の一番大事なポイントは、インターネットがようやく個人にとって「使える道具であり環境」になりりつつある、ということだ。その気にさえなれば、そして根性があれば、一人で色んなことをこなしながら、思いも寄らないことが実現できる。どんな思いも寄らないことか?「ア」のつく仕組みでお小遣いを稼ぐことではない。人生を、もしかしたら、世界を変えることになるかもしれない、思いも寄らないことである。
実は、ブログをやっている人はもう薄々気づいている。ブログをやるということ自体がすでに何かとんでもないことをしていることなのだ、と。こんな「つながり」、あり?という驚きの体験は、せっかくのそんな「つながり」を何かに活かせないかな、と発想して考え始める一歩手前にある。でもその一歩の歩幅は見当がつかないので、多くの人は色んな形で悩み、躊躇しながら、その一歩手前でぐるぐる回っている。しかし、そろそろ時は熟し始めた。kotorikotorikoさんは一人で粛々と熟していたのだった。そして弾けた。まだ第一弾だろうが。
ただ、大前提としてkotorikotorikoさんは孤軍奮闘し続けてきた人だということが見逃せない。自分の立ち位置と求めたいものがいつもはっきりしている。変な言い方だが、ウェブの進化とは関係なく、言わば人生の、人間の進化を実現しちゃっているところがあるから、Web 2.0に踊らされずに、それを手玉にとって遊んでしまえるのだと思う。主人公はウェブではなく、あくまで人間の「僕」である、ということだ。
それとは直接関係ないが、私が最近ブログに関して感じていることは、これも変な言い方だが、心底ブログを信頼できるかどうかが、ブログをやること自体の価値を決める、ということだ。この点については、私は少し揺らいでいるところがある。でも、いつも「これは手段ではなくて、目的。これが表現の最終形態。出版。」と自分に言い聞かせている。
kotorikotorikoさんの「非常識な試み」に触れて、私が一番感じたことは、kotorikotorikoさんがブログを信頼しているということだ。「真心」が感じられる。そしてそれはもちろんその「向こう側」にいる姿の見えない人たちのことを信頼していることを意味する。だって、彼らがブログを支えているのだから。
と、今日、久しぶりに、ノッフ!を訪ねたら、凄いことになっていたので、kotorikotorikoさんは一体何を始めたのだろうか、と昼ご飯の、限りなく野菜スープに近いパスタを作りながら、ぶつぶつ言いながら、上のようなことを考えていたのだった。