過去は刺激的だ

(大判→ Mt. Moiwa, January 6th, 2008
こうしてほぼ毎日ブログに考えたことや感じたことを書き綴ったり、flickrに写真をYouTubeにビデオをアップしたりすることは、美崎薫さんに倣って言えば*1、自分の人生をデジタル・アーカイブ化する試みの一環である。それは人生を記録するということだが、その記録が誰かに届くことで思いも寄らぬ出会いが生まれることの喜びは一方に確かにある。しかし、忘れがちなのが、せっかくの記録がどんどん埋もれてゆくことである。記録は追体験できなければ、しなければ、死蔵されたに等しい。ところが、ウェブは追体験しにくい。よほどのことがなければ、過去に書いたブログのエントリーを読み直したり、過去にアップした写真やビデオを見直したりしない。記録しっぱなしで終わりかねない。
(林)
年末からある事情があったお陰で、2005年9月から始めたこのはてなダイアリーをほぼ一通り読み直した。刺激的だった。本格的に始めたと言えるのは2006年4月からで、そのきっかけは梅田望夫著『ウェブ進化論』を読んだことだった。それ以来、多くの見知らぬ方とのブログ上でのやりとりをはじめ、ブログを介しての出逢いなど、非常に多くの貴重な体験を積んで来た。しかし、ブログのエントリーそのものに関しては、読み直さなければ、どんどん忘れてゆく。もちろん、上手に忘れるためにこそ、記録する意味があるという一理は分かっているつもりだが、それにしても忘れている。
(積雪)
記憶がどこまでどのように人格を規定するのかは不明だが、少しでも多く忘れない努力をすることで、記憶総体がある意味で揺らぎ、それがある意味で人格をいわば更新させるかもしれないことを確かめる実験、美崎薫さんの言葉では「新しい感覚を抱いた人間」*2になる実験を私はこのブログという場で実践しようとしたはずだったが、そのことすら忘れかけていた。一年以上まえのエントリーやコメントを読み直して*3、私は私の過去の思考を久しぶりに追体験した。

過去は刺激的だ。*4

(今日)
(昨日)
人生を記録する、とりわけいつでも追体験可能な形でデジタル・アーカイブ化することの意義は、実際に追体験できなければ、しなければ半減する。でも、追体験している姿は傍からは狂気の沙汰とさえ思われかねないんだよなあ。

*1:美崎薫「『記憶する住宅』と体験記録/再生の実践」(「システム制御情報学会」Vol.50, No.1, 2006)

*2:美崎薫「『記憶する住宅』そして未来へ - 記憶を発想に高めるコンピュータ環境を作る」http://journal.mycom.co.jp/special/2006/ithouse/index.html

*3:http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060927/1159349124

*4:美崎薫「『記憶する住宅』に住む:人生を記録する実践とその研究動向」(「認知科学」VOL.12, NO2, June 2005)