花崎皋平「旅日記・一九九三年------オーストラリアからインドシナ三国へ」

一昨日(7月28日)のエントリー、「タオ・ノート(Thao Notes)とタオ・アルシーヴ(Thao Archives)」 で記録した、花崎皋平さんとの対話のなかで、花崎さんは1993年にオーストラリアからベトナムを含むインドシナ三国を訪ねたときの旅日記を「みすず」に連載したことがあると語ってくれた。そのなかで、チャン・ドゥック・タオ(Tran Duc Thao, 1917-1993)について書いた、と。今日、大学図書館でバックナンバーを探してみたら、1994年の7、8、9月号の三回にわたって連載された「旅日記・一九九三年------オーストラリアからインドシナ三国へ」を見つけた。「1993年9月16日(木)晴」から「10月12日(火)晴」までの中身の非常に濃い、しかも随所に花崎さんの瑞々しい感性が湧き出している素晴らしい旅日記だった。9月号の第三回の後半、ベトナムに入ってから5日目の最終日「10月9日(土)うすぐもり」に、花崎さんはいよいよチャン・デュク・タオの親友だったゴー・マン・ラン博士と会い、タオについて話を聞く。

 五時すぎてから、朝日の支局で、ゴー・マン・ラン博士と会う。もう七十歳をすぎているようすだが、精気ある知識人。フランスに住居がある。「国内少数民族発展のための村落教育と援助のセンター」という国内NGOを創立して顧問をしていた。
 ベトナム少数民族の問題について概略の話をまず聞く。約七十の少数民族が居り、なかには消滅に瀕している民族もいる。モン族の場合、アヘン中毒が最大の問題である。アヘンの生産と販売に対する代替の経済的発展が必要であるなど、ひとしきり少数民族の話があった。
 そのあと話題を変えて、哲学者チャン・デュク・タオ氏の運命についての話を聞く。私はチャン・デュク・タオ氏の『言語と意識の起原』という著作を翻訳した(岩波書店、一九七九年、原著はパリで一九七三年に刊行されている)。彼にはもう一冊『現象学弁証法唯物論』という著作がある。一九五一年にパリで出たもので、これも邦訳がある(竹内良知訳)。チャン・デュク・タオ氏は、きわめて明晰な知性の持主で、その著作は天才的な資質を示すものであったが、噂では修正主義とレッテルを貼られ、姿を消してしまったとのことであり、私はかねてその消息を知りたいと思っていた。数年前、ベトナム文学者の加藤栄さんがハノイで彼に会ったことを知らせてくださった。独身で病気のために衰弱していたということも。
 ランさんは五〇年代のフランス留学生で、タオ氏とおなじくエコール・ノルマル・シュペリュールにまなんだ仲であった。ランさんの専門は経済学である。タオ氏は一九五一年に帰国し、ハノイ大学教授となる。ランさんはそのままフランスにとどまった。それが運命の分岐点だった、と彼はいう。
 タオ氏はまったく純粋な心を持った哲学者で、哲学によって世界を変えることができると信じる理想主義者であった。
 一九五六年から五八年の時期、百家争鳴政策の下で、より民主主義的な制度や言論活動の自由化を主張する知識人グループに組したため、中心人物ではなかったが、修正主義者として党から批判され、職を失ない、妻も彼の許を去った。以後、まったくの孤独の中での極度に困窮した生活が一九八六年までつづいた。じつに三十年近い、国内流罪的な状態であった。労働キャンプには送られなかったけれども。
 一九八九年ごろハノイ市へもどることを許され、「人間のための戦略」というブックレットを執筆した。これは一種のベストセラーとなった。そして、一九九一年、ベトナム政府の公式旅券で、政府の政策変更を象徴する人物としてフランスへ派遣された。ランさんがフランスで再会したときには、神経症気味であったが、その後回復して、パリに住み、現象学にたちもどって、生物学、人類学、言語学などの科学的知見にもとづく意識の志向性と人間の個体性についての研究を再開した。九三年四月、パリの病院で客死した。享年七十七歳。彼の生涯は真正の悲劇であった。
 およそこうした話を、私は一心に傾聴した。ランさんはタオ氏の著作集と追悼集を計画しているといい、追悼集には私も寄稿するようにと誘い、彼の晩年の論文や資料をパリに帰ったら送ると約束してくれた(これはその後、約束どおり送られてきた)。
 私は、その資料を得たら、チャン・デュク・タオ氏の運命を悼む文章を書くつもりだ、とランさんに告げた。二十世紀の、それも社会主義国家の民衆と知識人の運命は記録され、憶えられなければならないと思う。ランさんに会えたことは、今回のインドシナ三国の旅の中で、私にとってもっとも重要な出来事となった。

ランさんによる「タオ氏の著作集と追悼集の計画」はついに実現されなかったようだ、と花崎さんは語った。ランさんの消息も不明であると。花崎さんによる「チャン・デュク・タオ氏の運命を悼む文章」も書かれなかった。今後書かれることもない。そして、不思議な縁で、ランさんがパリから花崎さんに送ったタオ氏の論文や資料は今私の手許にある。一昨日私が勝手に「タオ・アルシーブ」と呼んだものである。

7月18日にも記録したように、一九八八年にハノイの病院でタオ氏に面会したkenjikienさんにとっても、mmpoloさんにとっても、そして私にとっても、ランさんのいう「運命の分岐点」、花崎さんのいう「真正の悲劇」、「二十世紀の、それも社会主義国家の民衆と知識人の運命」が関心の的であり、今後それをなんとか死蔵されてしまわない形で記録・公開することを検討している。私が非常に気になるのは「人間のための戦略」という小冊子の存在と内容である。しかし、kenjikienさんによれば、とにかくタオ氏の著作はベトナム国内でも見つけるのが極めて困難であり、そもそもタオ氏はほとんど無名だといっても過言ではないのが実情であるという。