「島嶼」と書いて「とうしょ」と読む。大きな島や小さな島、つまり島々という意味である。今福龍太流に「群島」とも言い換えられるだろう。英語では 'archipelago(アーキペラゴ)'。
日本(人)批判の思想的視座として「東南アジア島嶼文化論」を構想していた鶴見良行さんの遺作『ココス島奇譚』を手にした。id:yukioinoさんの紹介が目に留まって、その表紙写真にも強く惹き付けられたということもあって、すぐに買った。
本書には花崎皋平さんによる哀惜の念で強力に抽出されたような見事な解説「鶴見良行の人と仕事」が収められている。花崎さんは特に若い世代のために鶴見良行の正に「人と仕事」のディレクション(方向性)と意義を明快に語っている。
それは、「marginality, minorityの自覚」、「マージナルな立場に立つ」、「中立性」等と表現されるが、要するに「勇気をもってはみ出せ!」ということである。もっとも、それには「非陶酔性の抑え」という但し書きがつく。なぜなら、「陶酔や熱狂は、主観的な自己肯定と自己欺瞞をともなう」からである。したがって、どこかで醒め切っていなければならない。つまり、ナイーブなおこちゃまのような自己肯定では駄目だということである。苦い自己否定をくぐり抜けた大人の自己肯定でなければ。コンサートやオリンピックや阿波踊り等における陶酔や熱狂においてさえ。
花崎さんによれば、『ナマコの眼』(1990年)に結実する鶴見さんの仕事、研究は「東南アジア諸社会の多様性の自覚から、日本人と日本文化の多様性を再発掘する」という方向に沿ったものだった。その中でも特に『マングローブの沼地で』(1984年)においては、鶴見さんが正に射抜いた矢の周りに描こうとした「東南アジア島嶼文化論」が素描されている。
「島嶼文化論」だなんて、非常に難解そうだなと思われるかもしれないが、実はとてもシンプルで分かりやすい真っ当なヴィジョンである。要するに、大きな統一に抵抗するばらばらの小さなムラやシマの自由に組み替えられてゆくような連合を目指そうということだと私は思う。また、それこそが日本人と日本文化が捏造的に忘却したアジア的記憶、一見「とりとめのない」「沼地」的記憶なのだと私は直観する。
ゴーマンな私は「東南アジア島嶼文化論」を「島嶼世界論」と読み替えつつ、最近のブログを介した諸活動を再解釈し始めていた。
さて、そろそろ鶴見さんの最期の生の言葉に寄り添うことにしようか。