ブラジルのS/Z

最近の「枕頭の書」、といっても文字通りベッドの枕元に置いてあって、毎晩倒れ込むように横になっては、パラパラと捲っているうちに眠りへと誘ってくれる本は、管啓次郎著『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト、2006年12月)である。副題が『熱帯作文集」。そしてさらに"honolulu, braS/Zil"という非日本語タイトルがつつましく付けられている。明らかにロラン・バルトが試みたバルザックの『サラジーヌ』の構造分析の成果『S/Z』に範をとった「ブラジル」の構造分析を示す。

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

しかし、私はまだこの本をほとんど読んでいない。しかも読んだはずの部分もよく憶えていない。毎夜、ベッドのなかでひとつの壮大な物語を感じさせる表紙の写真(港千尋氏による)を眺め、帯の言葉を目で追い、さあ本文を、と思って適当に開いた頁を数行読み進む内に、いつしか心地よい眠りに落ちる、ということを繰り返している。

昨日のメカスの映画紹介で登場したハンモックのような効果が、この本にはあるような気がちょっとした。ハンモックも熱帯に住む人々の知恵の結晶のような寝具であり、表紙の帯の言葉にあるブラジルを象徴する「ゆれる曲線」の具現化そのもののような道具ではある。『ホノルル、ブラジル』ではハンモックについて書かれているかどうかを私はまだ知らない。

裏表紙の帯には、「そこにブラジルの美しさがあった。広大さ、不均衡、極端な対立、対立物の一致、すべてを浸すさびしさ。熱帯のマンハッタンみたいなリオの海岸通にだって、交通の喧騒や人々のざわめきが一瞬止まり、なんともいえない静寂がふわりと漂うときがある。そのとき、ぽっかりと、ある扉が開く。ぼくらは、そこから広大さへと出てゆく。すると永遠にサウダージ(郷愁)を変奏するブラジルがはじまり、ブラジルは誰の人生にとっても、一度はじまったらもう終りをしらない。(本文から)」とあって、これだけで、「ダメだ、ヤバい、これは読まないでおこう」という気持ちとは裏腹に手は本を開いているということを、しつこいようだが、毎晩繰り返している。

そして、とうとう昨晩偶然にも、そうやって適当に開いた頁、126頁に、正に上の箇所が書かれていて、意識が朦朧としかけていたにもかかわらず、私はちょっと目が覚める思いで、その前後を読んだ。すると驚いたことに、その前の部分には、私が大好きな映画のひとつ『セントラル・ステーション』のことが書かれていた。管氏は映画に関する「情報」は意図的に省いた書き方を貫いているが、その映画の本質的構造を見事に言い当てた説明がなされ、それが、上の引用の「そこに」に繋がるのだった。

ブラジル出身のウォルター・サレス監督の『セントラル・ステーション』は私にとって、二重に忘れがたい映画である。その中身もさることながら、それを初めて観たのが2004年の夏、アメリカで一人暮らしをしているときだったからである。ちょうどウォルター・サレスの新作『モーターサイクル・ダイアリーズ』が公開された頃で、私は近所のシアターに飛んで行った。それはチェ・ゲバラの若かりし頃の姿を描いた作品だった。それを観て、サレスという男に関心を持った私は彼の過去の作品を可能なかぎり、探し出して観たのだった。その中に『セントラル・ステーション』があった。でもサレスの作品の中で一番好きだったのは、実は『Bossa Nova』というドキュメンタリーだった。その頃、私が目を通していた数誌の新聞の映画評でも『モーターサイクル・ダイアリーズ』はおおむね好意的に取り上げられていたが、私はサレスのキャリアや映画哲学に関心を持ったのだった。映画監督になっていなかったら、革命家になっていただろうと自認するほどのサレスは、映画そのものついては、まるで哲学的な現象学者+マルクス主義者のように語っていたことが非常に印象に残っている。映像によって、現実を被うベールを剥がす、というような内容のことを。そして、そのような意図で作られた映画が観る人の意識に働きかけることによって「革命」が静かに成し遂げられることを望んでいると。

まさか『ホノルル、ブラジル』によって、その頃のことを思い出すことになろうとは。

(追記:啓次郎氏は啓次郎氏の誤りでした。「たけかんむり」の「管」が正しい漢字です。書肆吉成の吉成秀夫さんから、ご指摘いただきました。訂正して、お詫びします。)