風と空白


『風の旅人』 40号 - FIND the ROOT 彼岸と此岸 - 二つの時間/境の旅


竹富島には行ったことがないけど、管啓次郎さんの「風の経験」の話を身近に感じる。

 風には色がなく、見えるのは事物に反射する光だけ。しかし風とは空気の動きに留まるものではなく、その場の全面的な印象と五感の総合的感知が、そのつど「風」という名のもとに記憶されるというべきだろう。そして風は変わる。おなじ土地でも変わるし、土地ごとにも変わる。生きていることとはその風の経験であり、そこには光、水、土の経験もすべて含まれていて、結局、風が吹くかぎり、われわれにはどこにいても、旅に非常によく似た経験が絶えずつづいていた。


  管啓次郎「みずからの風の色を」(『風の旅人』vol.40, 28頁)


済州島に行ったことはないし、「済州四・三」のこともよく知らないけど、姜信子さんの「空白」の話を身近に感じる。

 語りうる記憶を語って聞いて語り継いでいくことは、たぶん、そう難しくはない。渡せる心をやりとりして分かち合うのは、おそらくたやすいこと。
 語りえぬ記憶を引き継いでいくこと。そっちなんでしょう。生きて死んで生きてゆくわれらにとって大切なことは。記憶に向き合い、記憶を語るのではなく、空白のありかへと向かい、空白に祈ることなのでしょう。心も記憶も体も声も言葉も、人というのは、実のところ、その多くは語りえぬ空白でできていて、その空白で結ばれていくのでしょう。
 私は、誰にも渡せぬ私の心を、その空白に渡しましょう。空白に向き合う私の心に、どうしようもなく生まれくる切実な言葉とともに。それを私は祈りと呼びます。


 島から島へ。
 歌うときは覚悟して、祈るときは命を賭けて、
 行くよ行くよ 私は行くよ


  姜信子「私は行くよ」(『風の旅人』vol.40, 48頁)


希望、、。