誰でもそうだろうが、自分の中にはいく筋もの時間の流れがあって、その中には停滞している流れも少なくない。幼少の頃に停止したままの時間もある。自分の中で死にかけている時間とでも言えようか。そういう時間に流れを取り戻すということを少し自覚的に行い始めたのは、数年前に父親が亡くなり、「次は私」という命題が否応なく突きつけられた頃からだったろうか。
(室蘭)
(リオデジャネイロ)
幼少期を過ごし、数年前まで実家のあった室蘭を思う度に、訪ねる度に、工場群に占有された室蘭港の近代的な景観の向こう側に、その昔白鳥が飛来したと伝えられる白鳥湾の幻の景観を想像する。そしてそのイメージにブラジルのリオデジャネイロの景観を重ね描く。(リオデジャネイロ?そう。もちろんリオの方が段違いに大きなスケールですが、噴火湾まで視野に入れれば、景観は相似形をなし、それが心に反映する模様、マインド・スケープは極めて似ていると直観しています。)今までその想像力を共有しえた人は、テンポラリー・スペースの中森さんただ一人だけれども。
室蘭を思う度に私の心は半ば幻想的な浦のイメージと幼心に刻印されていたアイヌの人たちの独特の面影で一杯になるのだった。先日墓参りで帰省した際に思い立って訪ねた二つの小さな岬、鷲別岬とイタンキ岬のうち、特にイタンキ岬では、ひっそりと片寄せ合うように建っている家々と、一瞥したにすぎないが、そこで暮らす方々の佇まい、そして潮の香りと潮騒に、幼少の頃の体験が鮮やかに蘇った。(こういう場合に、「記憶」という言葉をどこでどう使うのが適切なのか分からなくなる。)例えば、友人の親族で、やはり漁業を主な生業にしていた有珠(うす)に住んでいたアイヌの精悍な大人の男たちが「われわれ」の盆踊りの輪を遠巻きに冷ややかに眺めていた様子が。近い内に、有珠湾とアリトリ岬を訪ねてみたいと思っている。
そもそも「アイヌ」という言葉をいつどうやって知ったのか記憶がない。少なくとも子どもの私の前でアイヌのことを積極的に話題にする大人には出会わなかったし、なぜか大人たちはそうすることを避けているようにさえ感じられた。しかし祖父の口から、父の口から何かの折に実際上の必要から本当に稀にしか発せられることのなかったその言葉に私はずっと暗い影を感じ、その影の正体に惹かれ続けた。それは自分の中に継承されている「われわれ」の記憶の暗部だった。
そのような体験はその後、数十年間ほとんど放置しっぱなしだった。学校教育のなかでは「暗い影」に触れられることは全くなかった。しかし不思議な巡り合わせで、あるタイプの詩人や文学者による記録が、「暗い影」に光を投じていると感じるようになった。そしていつか自分の頭と体をその影の中に運ぶことになるだろう、と漠然と思うようにもなった。
今回は訪ねることができなかった登別の蘭法華岬(らンポッケ, ran-pok-ke, 坂の下の所)*1を数年前に彷徨った経験がある。詩人の吉増剛造さんがかつてそこに実在したahun-ru-par(アふンルパル, 入る・道・口, 「あの世の入口」, 「極楽穴」)*2を探して彷徨った場所を。その時、海のすぐ傍に「山神」と彫られた謎の石碑を見つけた。高さ1メートル、幅50センチくらいの大きさだった。かなり朽ちていて、裏側に刻まれた文字はほとんど判読できなかった。海岸になぜ「山神」なのか、非常に不思議な思いにとらわれた。荒ぶる海の神を鎮める山神なのか。その石碑の写真を吉増さんをはじめ多くの方に見ていただいたが、その由来など未だに謎は解けていない。