Andy Warhol, myself, c. 1974. From SCENES FROM THE LIFE OF ANDY WARHOL*1
George Maciunas at his parent's house, New York, 1952. (Lost Lost Lost).*2
ジョナス・メカスによれば、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928-1987)とジョージ・マチューナス(George Maciunas, 1931-1978)は根底において共通していた。
二人ともフラクサス(Fluxus)だった。ともに虚無の王国の出身。双方とも現代のこの文明を真面目に受け容れることはしなかった。どちらも自分流に文明を笑っていた。二人とも文明から少しばかり離れて立ち、文明に損なわれることなく、ただ傍らから冷静に観察し、文明を笑っていた。アンディ・ウォーホル------彼は五番街のディスコの入口に立ち、中には決して入らず、いつもポラロイド・カメラを手にしている。いまでも彼の姿をそこに見かける。すべてを見、すべてを記録する見開いた眼。ジョージもすべてを笑う、ウォーホールをも笑う。脆く、壊れ易い、さして意味もない、重要でもないみずからの世界を創るジョージ。誰もそれを買わないだろうし、売りもしないだろう。笑い、遊び、マッチ箱、なぞなぞ、何のためでも、誰のためでもない時、そうしたものから成り立つ世界をジョージは創造する。
(「第六の手紙 ジョージ・マチューナス 1977 - 78 - 84年」『どこにもないところからの手紙』asin:487995654649頁-50頁)
そんな二人、特にジョージのいわば「笑いの哲学」のルーツを、メカスは古代中国のアナーキーな哲学としての禅に見ている。
いや、禅は哲学でもなかった。それは芸術と言ってよい。禅は状況の本質あるいは問題の本質に、回り道をし間接的に、到達しようとする。リトアニアの民話に出てくる三人兄弟の一番下の子、例の愚か者は、いわば禅の修行者だった。ジョージは民話の中の三男坊、愚か者(じつは賢者)である。
(同上51頁)
周りから「愚か者」と見なされる者こそが、じつは「賢者」であるという逆説的真実。そのような意味での「愚か者」は例の「炭坑のカナリア」に等しいような気がする。