活字の前衛はどこに

まだよく見えないところはあるが、活字の歴史を調べていると、あるひとつのことを感じざるを得ない。それは一定の活字を普及させた力、権力の構造である。本木昌造(1824-1875)から始まる日本における近代活字の歴史(日本の近代活字―本木昌造とその周辺*1を垣間みただけで、いわゆる「明朝活字」の普及は近代国家の成立と不可分の様相を呈していることが見てとれる。

その一端は、例えば、本木昌造から活字印刷の歴史を下ると、築地活版製造所(1873-1938)、秀英舎(1876-, 現在の共同印刷, 1935-)、そして国立印刷局に枝分かれすることにも現れている。

一般に、秀英舎の「秀英体」と築地活版製造所の「築地体」は日本における明朝活字の二大潮流であると言われる。「活字の詩学」という面では、例えば、秀英体については、港千尋著『文字の母たち』(asin:4900997161)でも主題的に取り上げられた。一方、築地体については、横浜に1919年創業の現在も活版活字の鋳造販売を営んでいる印刷所があることを知った。

「築地体」そのものに関しては、小宮山博史氏の論考が参考になる。

しかしながら、言わば「眼の喜び」に身を委ねる「活字の詩学」の線を辿ってきた途上で、にわかに「活字の政治学」が気になり出した。端的に言えば、日本の文字組版のほとんどを支配する「明朝体」、欧文書体で言えばローマン体を使うことは無意識にどんな力に従うことを意味するのかということである。それは個人的な美意識の問題とは一応は分けて考えることができるが、思想的には連動している。

思いがけず、活字の「前衛」ということを考えざるをない場所に出てしまった。