活字の源流から未来の書物へ


これは祖父の形見の印鑑のひとつ。初めて見たときはなんて小さいのだろうと驚いたが、隣のマッチ棒の断面よりもずっと小さな面に文字をしかも鏡文字を彫刻してきたのがいわゆる活字地金彫刻師たちである。


http://www.yaginoki.com/kaigan/about.html

一昨年にプライベートプレスの私家活版印刷『海岸印刷』を始めた橋目侑季さんは、「日誌」のなかで清水金之助氏(1922- )による活字地金彫刻の実演見学会に参加なさったときの貴重な体験を美しい写真とともに瑞々しく綴っている。

活字地金彫刻は合金の軸に直に文字を彫り込んで種字を作る技術のこと。
活字の元となる型が母型で、その母型の元となるのが種字。まさしく活字の元の元。
(中略)
この日感じたことはなんとも上手く言い表しがたい。活字の源流を目の当たりにしたということ。
清水さんの技術。人柄。種字の美しさ。人間の手の可能性。
あるいは「活字」というと(「活字になる」という表現があるように)
「手書き」の対極の響きがあるが、その活字もまたかつては源から
人間の手仕事により生み出されていたということ。その重み。

先日紹介した活版工房LUFTKATZE)の平川さんもブログ活版散歩で同じ見学会の模様を報告なさっている。

平川さんによれば、

清水さんが彫っているものは、電胎母型(ガラ母型)の種となるもの。

母型を作るための種字を活字合金に逆文字を直接小刃で彫っていくのを「地金彫刻」と言います。彫られた物から母型ができるのは5回くらいまでだそうです。その母型からは何万もの活字が生まれて行きます。

というわけで、地金彫刻はまさしく活字の生命創造作業に他ならない。

橋目さんと平川さんの報告を読みながら、約半年前に港千尋『文字の母たち』(asin:4900997161)で、大日本印刷活版部門の最後の職人、彫刻師として活躍した中川原勝雄さんの「直彫り」ないし「新刻」の実演を目の当たりにしたときの驚きを綴った章「直彫りの驚異」に動かされて書いたエントリーのことを思い出していた。

そして急いでつけ加えなければならないことは、港千尋氏の眼差しは単に過去に向けられているだけでなく、世界中の書物の頁が文字単位でデジタル情報化されてインターネット上を流通するであろう近い未来にも照準しているように読めたことである。

 字を彫る人の姿勢は、ルーペを使っているとはいえ、基本的には字を読む人の姿勢と同じである。彼や彼女は椅子に座り、小さな字を見つめる。そのとき字を彫る身体は、本を読む身体と同じ知覚をもっている。字を彫ることは書物のアルファであり、印刷された字を読むことは書物のオメガであるが、その最初と最後がひとつにつながるように、同じ身体によって担われていることが、重要なのである。

 その身体感覚は、おそらくデジタルの時代にこそ求められるものだろう。文字を作り出すことと読むことを結びつけ、書物のアルファとオメガをつなげるためには、これまで人間の手によって彫りだされてきた、すべての文字が必要になるだろう。それらの母型をとおして立ち上がる記憶は、未来の書物の血肉となるであろう。
(『文字の母たち』084頁)

ところで、来る3月8日(土)に、平川さんらが企画、主催する「活版印刷を知る勉強会」にて、清水金之助さんをお迎えし、実演を交えながらお話を伺うことができるという。詳細はこちらで。

ちなみに、一昨年の「第13回東京国際ブックフェア2006」に関する記事が思いがけず示唆的だった。

というのは、その中で偶然に、大日本印刷が「ものづくりの原点」と位置づける活版印刷の活字の直彫りを実演展示し、大勢の観客が見守るなか、中川原勝雄さんが一心に彫り続ける様子と並んで、ムサシの出品した米国キルタス社(Kirtas Technologies, Inc.)製の自動ブックスキャナが紹介されていたからである*1。つまり、いずれは朽ち果て消えていく物質的記憶は、電子的記憶として継承されていくことになるだろうという示唆である。

*1:Kirtas社のスキャナーに関しては、かつてbookscanner記で取り上げられたことがある。「自動車」における「自動」の意味(2006-11-17)参照。