手の思想、手仕事

ジャック・デリダJacques Derrida,1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、文字とか声とか耳とか、暗闇でメモを取るとか、盲目の絵描きのこととか、手についてとか、およそ学問的知識の項目に値しないような周縁的な話題に思考を深く巡らせつつ、学問的知識の「中心」を撃つような仕事をし続けた面もある変わった哲学者だった。

Derrida [DVD] [Import]

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2004年、滞米中に彼の訃報に接し、エイミー・コフマンとキルビー・ディック両監督によるドキュメンタリー映画デリダ』のDVDを購入して、何度も観た。その中で一番印象的だったのは、コフマンとの自宅でのくつろいだ会話のなかで、デリダが眼と手について語る場面だった。デリダは、眼はその人の幼い頃の俤をいつまでも残すが、手はどんどん変化するという内容のことを語った。その真意は不明だったが、非常に印象的だった。それは例えば、眼と手を見れば、その人のだいたいが分かるとか、眼はその人の変わらぬ本性を示し、手はその人の仕事、人生を示すと敷衍されるような一種の教訓には留まらない思想を示唆しているような気がしたが、そのときはそれ以上は考えなかった。

ところで、「手仕事」という言葉がある。

先日、清水金之助氏(1922- )による活字地金彫刻の実演見学会に参加した私家活版印刷『海岸印刷』の橋目侑季さんの報告を紹介した。

そこで引用した橋目さんの清水金之助氏の手仕事に対する深い感動を綴った文章のなかに「人間の手の可能性」という言葉があって、ずっとひっかかっていた。再度部分的に引用する。

人間の手の可能性。
「活字」というと(「活字になる」という表現があるように)
「手書き」の対極の響きがあるが、その活字もまたかつては源から
人間の手仕事により生み出されていたということ。その重み。
2007.06.19「活字地金彫刻」

活字地金彫刻は、普通は文字を書く手が、途方もない遠回りをして文字を刻む仕事である。そのような手仕事は実は人間が文字を獲得するに至った途方もない時間を密かに追体験する仕事なのかもしれないと思った。だからこそ、他の手仕事以上に一種の神聖さを帯びるのではないか。いわゆる芸術家たちの仕事の根源は、時間と手間をかけて一つの「文字」を刻むという仕事にどこかで通底しているような気もしてきた。思いがけず、そもそも「文字」とは何か、という問いが「人間の手の可能性」という観点から、かつてない姿で浮上してきた。