欧文書体のうち、16世紀以来の複雑な系譜をもち、もっともポピュラーで、もっともよく使われてきたのがGaramond(ガラモン、ギャラモン)である。書体としてのGaramondの概要はこちらで。
Claude Garamond's roman text face in use c. 1485. *1
港千尋氏は『文字の母たち』(asin:4900997161)のなかで、フランス王立印刷所を舞台にして、十六世紀から十九世紀にいたる王政、帝政、王政復古という近代史を背景にして、ガラモン体に始まるローマン体の近代史をいわゆる「王の文字」の観点、すなわち文字と権力の結びつきの観点から鮮明に描いているが、そのなかで特に、Garamondの生みの親である彫刻師クロード・ガラモン(Claude Garamond, 1480 - 1561)その人への注目が興味深い。
十六世紀はじめのことであるが、クロード・ガラモンという名のひとりの天才的な彫刻師が、ギリシア文字の活字を制作した。サイズは十六ポイント、ついで九ポイントさらに二〇ポイントの三種類だったが、そのどれもがフランソワ一世のために制作されたことから、「王のギリシア文字」と呼ばれ今日に至っている。このうち十六ポイント活字は一五四六年にギリシア語新約聖書の印刷に使用され、印刷所が保管する書物のうちでもっとも貴重なものとされている。
書体に残る彫刻師の名として、ガラモンほど親しまれている呼称はないだろう。クロード・ガラモンがそのあまりにも有名なローマン体をつくったのは一五三〇年から四〇年のあいだとされているが、その活字はわずかな期間のうちに広くヨーロッパ中の印刷所から注文され、ラテン・アルファベットとしてはタイポグラフィーの代名詞的な存在となった。(中略)
印刷の歴史には当然のことながら、それに先行する写本の歴史が影響する。他の書体に比較して、オリジナルのガラモン体にはカリグラフィーの感覚が残っていると言われるが、それはクロード・ガラモンが生まれたのが、美しい写本に囲まれた時代だったということでもある。ガラモンは貴重な書物だけでなく、美しい文字を書く人々に直接接していた。「王のギリシア文字」は、十六世紀初頭に宮廷に雇われていた、あるクレタ島出身の写本制作者の筆致を元にしていると言われる。二つ以上の文字の綴りをひとつの活字としているのはそのためで、このエピソードは、ガラモンが文字をどのように見ていたかを伝えて、興味深い。
カリグラフィーの影響を脱し、活字にそれ自体の建築を与えたのは十七世紀末から十八世紀半ばにかけて制作されたグランジャン体である。王立鋳造所彫刻師であったフィリップ・グランジャンは、「王のローマン体」と呼ばれることになるスタイルの基礎をつくった。これは半世紀のあいだに二一種類のサイズが制作されている。ガラモンと異なりグランジャン体は数学的な統一感があるとされるが、同時にその古典様式はルーヴル宮の列柱に比せられてもいる。
(「王の文字」018 - 019頁)
オリジナルのガラモン体が権力の象徴に相応しいグランジャン体へと移行したときに見かけの上では失われたもの、つまり「美しい文字」としてのカリグラフィーの感覚は、しかし「手の記憶」として継承されているのだと思う。少し離れた文脈で港千尋氏がこう述べているように。
彫刻されたひとつの文字には、それに先立つ無数の手による印刻と印刷の積み重ねがあって、そこに至っていることを思い知らされる。
(同、021頁)