Man of Aran(1934)、一匹のカニ

アラン [DVD]

アラン [DVD]

なんて美しい映画だろう。ロバート・フラハティRobert Joseph Flaherty, 1884-1951)監督のドキュメンタリー映画『アラン』(Man of Aran, 1934)。

ジェイムズ・ジョイスアイルランドケルトへの関心の線、島(群島)という地理的形象の意味論的関心の線、そしてドキュメンタリー映画、記録映画の父フラハティの作品であるという関心の線が交わる場所に、実在するアラン諸島のなかのイニシュモー島で撮影された映画『アラン』があった。以前から観たいと思っていた作品だったが今まで観る機会はなかった。同僚の若いジョイス研究家のKさんが、私の関心を察知してそのDVDを快く貸してくださったのだった。

絶壁に叩きつける波、岩を噛む荒波、厳しい大自然と闘う人間たちの生きざま。アイルランド西岸の荒涼たる孤島アランは、岩だらけで木も土もない。冬は嵐がたけり、断崖には怒濤が押し寄せる。ここに生きる人々は苛酷な環境に不屈の精神力で立ち向かい、生命のある限り闘いつづける。”長編ドキュメンタリーの父”フラハティ監督はカメラを通じて真実を凝視し、劇映画が空虚に見える強烈な説得力で訴えかける。

これはDVDパッケージのクレジットに添えられた日野康一氏による内容紹介の文章である。「どんなに言葉を費やしてもとうてい表し得ない『真実』の映画だから、とにかく観て」とその言葉は語っているように感じた。あるいは、パッケージに使われているスチール写真(ロラン・バルトがある理由から映画本編よりも重要視し偏愛したスチール写真)がただならぬ気配を漂わせていたから、そう感じたのかもしれない。とはいえ、一体「真実」とは何なのか、あるいは「何」の真実なのか。


荒波に翻弄されながら帰還する小舟の父の無事を見守る母と息子。

十九世紀のウバザメの捕獲を再現したシーン。

叩き付ける波によって破壊される小舟を見やる父と息子。

馬を引く息子。

岩の割れ目の底からわずかの土を掬い集める母。

こんな凄い映画だったとは。70分余りの間、私はドキドキし続けた。体の奥、脳の奥の方で深く眠っていた記憶が呼び覚まされた。心が熱く融ける瞬間もあった。そして「真実」とは何かが分かった。それは日野康一氏の文章中でも反復されている「闘い」のことだった。

最初大げさな言葉だと思った「闘い」が、実際に『アラン』を観ているうちにだんだんと実感されるようになった。それは時に正に生命がけの自然とのコミュニケーション、交換のことだった。そして逆に、そんなハラハラドキドキする闘いが日常生活からは限りなく遠ざけられて実感されなくなって久しいぬるい環境のなかで今私は生きていることを思い知らされた。子どもの頃にはまだそんな環境が残っていて、体の奥に眠っていたその頃の色んな危険な匂いのする体験の記憶が蘇ったのだった。観ている間中私は「信じられない!おい、よせよせ!まさか!駄目だよ!そんな!......」と声を上げ続けた。

作品の背景、内容、専門的な評価、最近観た人の感動の中心等は下を参照のこと。


興味深い問題とエピソードに溢れたこの映画は、あまり注目されないようだが、少年マイケル(Michael Dirrane)が海岸の岩場で苦労して一匹のカニを捕まえて、指を挟まれたりしながら、大事に帽子の中にしまうシーンから始まる。そして実はそのカニは後半、身の竦(すく)むような断崖絶壁の上から釣りをする場面で、餌として使われるのである。そしてそのカニのお陰でマイケルはスズキのような大きな魚を釣り上げるのだった。私はなぜかこの二つのシーンの物理的には離れた意味的な繋がりに非常に強く惹かれた。おそらくそこにフラハティの基本的な視点が反映しているのだろう。

それにしても、島を襲う波の映像は凄まじい。それを記録しただけでも価値のある映画だと思う。