従属欧文、ヒラギノ明朝のもうひとつの秘密


Mac OSXに標準搭載されている日本語書体ヒラギノ明朝w3の見本

この見本のように、日本語書体のセットに含まれる欧文書体のことを「従属欧文」という。本来の欧文書体が「独立した」書体であるのに対して、あくまで日本語書体に「従属している」書体という意味である。写植時代に遡る従属欧文のルーツ、基本的なデザイン上の特徴、そして用途については下を参照のこと。

実は上のヒラギノ明朝の従属欧文を設計したのは、欧文書体デザイナーの小林章氏である。その設計の経緯について小林氏は、日本語で書かれた欧文書体設計のバイブルともいうべき『欧文書体 その背景と使い方』(美術出版社、2005年)の中でこう書いている。

欧文書体―その背景と使い方 (新デザインガイド)

欧文書体―その背景と使い方 (新デザインガイド)

従属欧文について

写植の時代には、日本語書体の従属欧文で英文を組んだのをよく見かけました。写植時代の従属欧文は、和文中の記号用としてやむを得ず欧文本来のバランスを崩して作るので、読みやすさや美しさは海外の質の良い欧文書体とは比べものになりません。15年前、たまたま立ち寄った古本屋でめくった1930年代の本は、横組の明朝体の文章中に出てくる英語や独語の単語にライノタイプの欧文書体であるGranjonを使っていました。ライノタイプにつとめるとは思いもせず、また書体と関係のない本でしたが、きれいなので買って今でも持っています。欧文組版だけを見れば、写植時代の従属欧文よりもはるかに良かったのです。デジタル和文書体の設計に携わった時は、従属欧文でも立派な欧文が組めるように、ヒラギノ明朝・タイプバンク書体アクシス書体で精一杯のデザインをしたつもりです。(127頁)

その甲斐もあって、以前書いたように近年ヨーロッパではヒラギノが欧文の本文組に使用される場合が増えているのだった。

それにしても、従属欧文の設計とは正に異文化が文字(組)という目に見える相において生々しくせめぎあう前線であると思い知らされた。かけ離れた文字空間構成どうしを、それぞれの特徴を活かしつつ、いかに美しく共存させうる第三の空間を構成するか。写植時代の従属欧文は、余りに日本語寄りで欧文の美しさを犠牲にした。それとは真逆に小林章氏は、一面ではハラハラするほど欧文の美意識に寄添うかに見えながら、実は和文と欧文の最も深いルーツの共通性にまでデザインの眼を届かせていたのだと思う。

つまり西のカリグラフィーと東の書の根源的な共通性、つまり筆記、手の記憶である。おそらく、ヒラギノ明朝の従属欧文を設計した際の小林章氏は、欧文書体のカリグラフィー的記憶と、ヒラギノの設計思想の出発点である、流れるような筆使いで、線が強くて、勢いがある平安朝の連綿仮名(れんめんがな)の記憶とを秘かに結婚させたのであろう。