道具に魂を奪われるほどに

生活と仕事、あるいは仕事を含めた生活のなかで、日々の決まり事、決め事を面倒くさいなあと思いながら受け身にこなしているか、それともそれこそが大切な何かを死守することなのだと腹を決めて前向きに手を抜かずに取り組んでいるかの違いが、その人の生活と仕事の質を決めるのではないだろうか。例えば、仕事や生活に必要な道具や場所の整理や手入れを他人まかせにしているか、それともこまめに手間と時間をかけて自分で整理したり手入れしたりしているかの違いが、作品や商品の質に反映し、商売では結果的にお客さんがつく/つかないの違いにもつながりうるのだと思う。

私は、自分のことは思い切り棚に上げて、そういう眼で世間を見ているようだ。そのせいか、そんなんで商売はしてほしくないなあと感じることは少なくない。基本的に自分の仕事に愛着と誇りを持っていない人、お客さんの立場に立てない人がやっている商売は芳しくない。そしてそれは日々の仕事に関わる細々としたことへの配慮と日々使う道具や仕事場の手入れに如実に現れる。

私は祖父が数多くの大工道具と農具を、父が多種のカメラを毎日のように手入れするのを見て育った。道具が埃を被っているのを見たことはない。いつもピカピカに手入れされていた。ところが天の邪鬼の私は、祖父と父の道具を大切にする姿に、まるで道具に魂を奪われているような気がしたせいで、生意気にも仕事は「道具じゃない」などと思い、若い頃は敢えて道具を祖末に扱うという今となってはちょっと後悔するような情けないことしていい気になっていた。それでも、いつの頃からだろう、自分が使う道具は大切にするようになった。というか変に依怙地にならないかぎり、自然とそうしている自分に気づいた。少しは素直になったのかもしれない。

そんな私だが、筆記用具に関してだけは、どんなに古いものでも捨てずにとってある。祖父や父ほどまめではないが、時々埃をはらってきれいにしている。今、自宅の自室や大学の研究室には、自分で買ったものだけでなく、娘たちが使わなくなった鉛筆、色鉛筆、色とりどりの各種ペンまでもが空き瓶に分類されて本棚のあちらこちらに分散して置かれている。これから一生使うことはないかもしれない物も多い気がするが、捨てられない。

そう言えば、いい歳になってからも渡米する前に魔がさして大量の本を処分してしまったことを帰国後に大いに後悔したのだった。偉そうなことは言えない。