このところ私はほぼ10年前にタイムスリップしている。面白いなあと思って読むものはみんなほぼ10年前に書かれたテキストである。この10年間に素通りしてきたある道を自分なりに辿り直しているというか、私自身にとってのいわば「空白の10年」を埋めようとしているらしい。
『デザインの現場』1997年6月号。特集「文字とレイアウト」
数年前に大量の本と雑誌を手放したときに、なぜかとっておいた数少ない雑誌の一冊がこれだった。10年前の『デザインの現場』1997年6月号。特集「文字とレイアウト」。最近これをいつも持ち歩いて気が向いたら捲っている。その度に発見がある。この号は内容はそのままに後に赤い装丁を施されて単行本として再版されたことを最近知った。この号にはデザインの世界をかなり深くまで見通せる記事が満載されている。これを買った10年前にハマっていたら、その後の人生は今とは違っていたかもしれない、と無意味なことさえ想像してしまう。その中でも、今までのところ次の三本が少なくとも私にとっては非常にためになった。
- 「文字で伝えるということ 朗文堂・片塩二郎さんの話」(取材・文=千葉英寿/撮影=桜井ただひさ)028–033頁
- 鈴木一誌「組版の要は『動機の文法』」050–051頁
- 中垣信夫・小泉均「グリッドシステム スイス・ドイツで発達したタイポグラフィとレイアウト」056–067頁
1.については以前少し触れたことがある(→ 「古いものとの対話」)。
2.は『ページと力』の「4 フォーマット」(203–248頁)をコンパクトにまとめたような内容になっていて重宝する。
3.は、今日私たちが印刷物のページを見る「目」を形成したとさえいえるドイツ由来のフォーマット(「本文基本設計組」)の一種「グリッドシステム」の由来と変遷、またそれに深く連動するスイス発祥のインターナショナルなタイポグラフィの二つの系譜が多くの図版とともに非常に魅力的かつ分かりやすく解説されている。前者は杉浦康平が客員教授を務めたことでも知られるウルム造形大学に留学した体験を持つ中垣氏が、後者はスイス・バーセルAGSに留学した体験を持つ小泉氏がそれぞれ図版を提供し本文を執筆している。
左は鈴木一誌「組版の要は『動機の文法』」の最初のページ、右は中垣信夫・小泉均「グリッドシステム スイス・ドイツで発達したタイポグラフィとレイアウト」の最初のページ。中垣氏が紹介しているグリッドシステムの入門書Grid Systems in Graphic Design/Raster Systeme Fur Die Visuele Gestaltung
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中垣氏曰く「20世紀最重要のタイポグラフィの名著。文字を超え、哲学書と呼んでも良い」本Typographie: A Manual of Design
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2.と3.に共通するテーマである「フォーマット」に関して、なるほどと感心したのは、3.で小泉氏が紹介している1960年前後の二つの非常に対照的なタイポグラフィ雑誌の違いの本質についてだった。
左はチューリッヒ派の同人雑誌Neue Grafik 1, 1958、右はバーゼル派のタイポグラフィ専門誌TM SGM RSI(Typographische Monatsblätter Schweizer Graphische Mitteilungen Revue suisse de l'Imprimerie) Nr.10, 1960
それは一般化して言えば、いわゆるチューリヒ派とバーゼル派というスイス・タイポグラフィの二流派の対立点、対立軸の意味合いだった。小泉氏によれば、チューリヒ派の『ノイエ・グラフィーク(Neue Grafik)』はウルム造形大学の理念であり思想でもあった「グリッドシステム」を頑固に守る姿勢を見せる「グリッド至上主義」であり、対するバーゼル派の『TM』の表紙のレイアウトは、「あらかじめ決められたグリッドではなく、写真の図柄から生じる力線によって決められている」。そしてそのことの意味について小泉氏はこう述べる。
この年(1960年)の表紙のシリーズはもちろんグリッドのある機能の優先した構成であるが、それ以上に空間の持つ可能性への挑戦が始まってくるといってよい。つまり、あらかじめ計算されたグリッドシステムに載せるという固い従来の手法から、この表紙のように写真の持つその素材あるいは規則にとらわれない視覚的なグリッド性の発見と挑戦、あるいは平面上の空間の美の追求が花を咲かせる。(067頁)
ところで、2.のなかで、いみじくも鈴木一誌氏はグリッドシステムの両義性に言及している。
グリッドシステムもある種のフォーマットであるが、大本のグリッドが悪ければそれにいくらのってもだめなわけで、大本を確かめずにグリッドだからと安心するのは楽天的すぎると思う。グリッドとは発想のための自分用の粗い目にすぎず、自分がいかなるグリッドを白い紙に透過するかの力は相変わらず問われている。(050頁)
さらに鈴木氏は自身行ったフォーマットのマニュアル化(「ページネーションのための基本マニュアル」制作)を念頭に、標準化はいわば高度なゲームのルールとして必要であるとした上でこう結論する。
フォーマットをつくることとは、その標準と例外を一気に生きてしまうことだ。標準と例外をみんなで楽しむ。フォーマットとは共通のゲームの場であって、制作者間のシナリオである。(051頁)
さて、ここで先にチューリッヒ派とバーゼル派の対立に見えたものは、実は対立ではないと言える地平が見えてくるような気がする。というのは、先の引用で小泉氏のいうバーゼル派の「写真の図柄から生じる力線」、すなわち新たな「グリッド性」の探究は、チューリッヒ派の「グリッド至上主義」と必ずしも対立しないどころか、既成のグリッドを盲目的に踏襲することなく新たなグリッドを見出そうとすることはむしろ真性の「グリッド至上主義」であると言えるだろうからである。
比較対照の例に挙げられた『ノイエ・グラフィーク』と『TM』は、やや誤解を招く選択に思えてきた。『ノイエ』はテキスト中心の本文組であり、『TM』は人目を引く必要もある写真中心の表紙組である。フォーマットの根本的な比較例としては適切ではなかったように思う。
それで一体何が言いたいかというと、とりあえずドイツ・スイスに淵源すると押さえられる幾何学的な秩序としてのフォーマット「グリッドシステム」と真に対立するようなフォーマットは何かという問いが立てられそうだということである。それは鈴木一誌氏のいう「ページネーション」の思想にも深く関係し、さらには杉浦康平氏の宇宙的なスケールのデザイン思想にも関係すると感じている。それとも、グリッドシステムは、それに「揺らぎ」を与えることはできても、それ自体を否定することはできないデザインにとっての大前提なのだろうか。つまりそれを否定することはデザインそのものを否定することになってしまうのだろうか。どうも、そうではないような気がかすかにしている。
このエントリーを書き始めたときには想定していなかった場所に出てしまったが、当然の素朴な疑問ではある。
ちなみに、私が『デザインの現場』1997年6月号を捨てなかった大きな理由のひとつは、この本自体の表紙のレイアウトだったのかもしれないと思っている。ほぼ中心に配置された異例に小さな少女の写真に強く惹かれていた。特にその目に。ところがなぜか今まではその写真の素性についてちゃんと知ろうとしなかった。今日掲載されていた関連記事「小林響 7年の旅の集大成」(102–108頁)をちゃんと読んだ。それは小林響氏の写真集『tribe』のなかの一枚だった。そのチベットかネパールの少女の瞳が濡れ輝く瞬間を捉えた写真がなければ、私は今こうしてこんなエントリーを書いてはいなかっただろうと思うと、写真の力を改めて痛感する。
左は1990年当時35歳の小林響氏。バンコクからチェンマイへ向かうバスの中にて(108頁)、右は関連記事「小林響 7年の旅の集大成」の最初のページ(102頁)
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