広告パラダイム

以前、印刷史上われわれは書体的には「築地体パラダイム」のなかにいると書いた。

そのさらに背景に控えるパラダイムが広告であることを知った。


今朝の朝刊(朝日新聞)の国際面で目をひいた記事。「姿消す」という見出しが効果的だった。

私が当たり前だと思っていた新聞紙面をはじめとする雑誌や書籍でも常態となっている「見出し」の使用はたかだか90年の歴史しか持たない。しかもそれは結局のところ、「全紙面の広告頁化」に外ならなかったと、幕末から昭和初期まで100年に及ぶ新聞紙面のタイポグラフィを検証した府川充男氏は断言する(「幕末から–大正の新聞紙面と組版意匠の変遷」、『印刷史/タイポグラフィの視軸』76頁)。

詰まるところ、本来広告頁に萌芽した記事の立体化とセンセイショナリズムという組版意匠と編輯の技法が新聞紙面の全体を覆い尽くしていくこと、これこそが近代新聞紙のスタイリッシュな定型の確立に外ならなかったのである。今日自明のものとされている新聞紙編輯上の諸アイテムは殆どすべて、明治最末期から大正初年においてなされた新聞紙の定型化過程に直に淵源している。(92頁)

その「定型化」の中身はこうである。

大見出し–中見出し–小見出し–(リードー)本文という記事の立体的構成を常態とし、明朝体を主体としてゴシックを混植し、タイトルやリード類が本文何段を抜くかによって各々の文字数、文字のサイズ、字詰めと字下げまでがほぼ一義的に規定される。(76頁)

そして、府川氏はその定型化の意味をこうみなす。

ともかく、定型化なって以降の新聞紙とは明らかに”ヴィジュアルな広告手法による情報の編輯=情報操作の一種に外ならない。この百年近くに及ぶ歴史は、それが「社会の木鐸」であるどころか、啻(ただ)に”欲情と結託”した物語の増幅装置に過ぎなかったことも明示している筈である。その”広告手法”それ自体、あるいはその中で流通する紋切り型物語りに関しては、何れ別途に分析を試みてみたいと考える。(95頁)

要するに、見出しを活用したタイポグラフィとは紙面の広告化=情報の商品化と歩みを一にする情報の立体化の技術であるということである。これは無論単に広告頁化を「けしからん」と断罪しているわけではない。そうではなく、否応なくわれわれはそのようなパラダイムの中で生きざるを得ないという現状認識の必要性を訴えていると捉えるべきである。その上で、これって、どうなの?と問いかけているわけである。

「紋切り型の物語」は根深い。それは資本主義が際限なく紡ぎ出す物語であるだろう。その中で呼吸しながら、にもかかわらずそこから逃走する線をどうやって引くことができるのか。府川氏の別途の分析が楽しみである。