文字に声を聴く

杉浦康平編著『アジアの本・文字・デザイン』(asin:4887521960)のなかで、インド・カリグラフィーの第一人者であり、詩人、デザイナー、タイプフェイス・デザイナーでもあるジョーシー(R. K. Joshi、1936年、インド、マハラシュートラ州サングリ生まれ)が、私の理解を超える二つのことを語っていてとても刺激的だった。ひとつは「究極のタイポグラフィー」で、もうひとつは「究極の書」。(以下、特に断らない限り、カギ括弧内の言葉は本書258–296頁からの引用である。)

究極のタイポグラフィーとは、「音声タイプ」のことである。すなわち、音声とテキストを結びつける文字のこと。そんなことは不可能に決まっているだろう!と思わず一蹴してしまいそうになるアイデアをああでもない、こうでもないと探究し続けているところが凄い。音声タイプが本当に実現するかどうかは実は問題ではなく、音声とテキストを結びつけたくなる欲望を大切にすることこそが問題なのだと気づく。つまり、文字に声をどれだけ宿らせることができるかということ。

究極の書とは、「まったく書かない…」ということであるという。ほとんど禅問答の境域に入った気分にもなるが、これもまた、あくまで「究極」であって、どんなに優れた書も書かれてしまった時点で「スペース(白紙、宇宙)」の孕む可能性を限定することになる、という認識の大切さを訴えているのだろう。ジョーシーは「最初のタッチ」、その「接触点」(コンピュータ・グラフィクスでは「ピクセル」)と「スペース」との深いコミュニケーションこそが重要であると語る。どこにどう最初に触れるかによって、その後の展開は「スペース」の自己表現、自己展開になるらしい。

ところで、ジョーシーはそもそも「書体の基礎」は「音声体系」にあるという思想の持ち主であり、実際にカリグラファーとしての彼は「気合いのこもった大声を出しながら」文字を書き上げるという。その声とは呼吸の音楽ともいうべきマントラである。

そんなジョーシーとの出会いを通して、杉浦康平は「文字は声だ、マントラ(呪文・言霊)の乗り物だ」という深い認識を得たらしい。

そうは言っても、実際には文字は声ではない。文字は声の抜け殻のようなものであり、それを読む者がその「抜けた部分」をどれだけ補いつつ、その文字に声を聴き取ることができるか、が書体を含めたタイポグラフィーの出来不出来を決めるのだろう。


図版27部分、『アジアの本・文字・デザイン』287頁

ちなみに、これはジョーシーとの対話の中で杉浦康平が紹介している美しいベンガル文字。インド人のサタジット・レイSatyajit Ray, 1921–1992)監督の映画『大地のうた(パンチャ・パンタリ)』(Pather Panchali, Song of the Little Road, 1955, asin:B00008KL5C)のクレジット・タイトルのカリグラフィー。これは実は元々書家だったサタジット・レイが自ら書いたものであるという。このラテン・アルファベットと漢字の間を縫っていくような繊細で端正な文字を見ると、まるで聞いた事のない声が聞こえてくるような気さえするから不思議である。