ジョン・ケージの「楽譜」を鏡にして:ハングルの音楽性と平仮名の音楽性

杉浦康平と韓国のデザイナー、アン・サンス(安尚秀[Ahn Sang-soo]、1952年、韓国忠州生まれ)のハングルという文字の実験をめぐる対話は大変興味深い(本書103–111頁)。特にハングルの音楽性、平仮名には不可能に思える音楽性に驚いた。杉浦康平も驚いているハングルの音楽的特性とは、アン・サンスによれば、

ハングルは組み合わせによって、新しい音を作ることができるという開かれた構造をもつ文字です。(105頁)

たしかに、昨日紹介したように、ハングルには音声を表示する字素がその固有の位置で機能するという大きな特徴がある。それをアン・サンスは特に「位相素」的特徴と呼んでいる(098頁)。そのような作字原理は、一見大きな束縛的ルールに見えて、実はいわば音声の無限の組み合わせの可能性に向けて開かれているのだということに、ある時アン・サンスは気づいたのだった。それから彼の新しい音、音楽と結びついた形、文字のデザインの実験が始まった。


アン・サンス(安尚秀)作、1995年。「これは私の作ったジャズ・コンサートのポスターです。カン・テファンというサックス奏者の公演なのですが、彼のサックスの音が私にはこのように聞こえたんです。音が重なり、倒置され、反復する…。」(アン・サンス、110頁)

そんなアン・サンスがジョン・ケージの「楽譜」に言及するのはよく分かる気がする。

作曲家ジョン・ケージは音楽的な実験をたくさんしていますね。私がとくに好きなのは、彼の楽譜です。あれはじつにタイポグラフィー的で、独特のものですね。


ジョン・ケージの楽譜「声のためのソロ」より。1958年。109頁


シルバーノ・ブソッティのピアノ曲の楽譜『デビッド・テュードアのための五つの小品」。1959年。109頁

アン・サンスのケージの「楽譜」への共感を引き取って、杉浦康平はこう敷衍する。

ユニークな表現で、ケージの楽譜はデザインセンスにあふれていますね。ケージはダダや未来派の作品を受け継ぎながら、さらに音楽的な発想と東洋思想を加えて、違う位相で音と形の思いがけない結びつきを提示している。

つまり、アン・サンス–杉浦康平にとっては、ジョン・ケージの「楽譜」は音楽演奏のためのスコアーではなくて、その形自身がすでに「音楽」になっているということだと思う。

漢字に「異」を唱え、「漢字の腹を切って生まれた子」とまで言われるハングルだが、漢字の子であることに変わりはない。日本語のように見かけ上は漢字と共存はしていないものの、アン・サンスのいう「位相素」的特徴は、明らかに漢字の複合性に通じるものがある。ハングルは文字システムとしては漢字を排除したものの、漢字が持つ字素を組み合わせる、複合させるというモデルを音声に重点をシフトしつつもちゃんと継承しているのだと思う。だから、杉浦康平はアン・サンスに向かって、親を見直せという。

このように文字を複合させる、斑(まだら)にするという点において、漢字とハングルは似かよっています。そのように見直してゆくと、漢字とハングルはもっと深い友だちになれるんじゃないでしょうか。(103頁)

杉浦康平は平易な表現で深淵なことをさらりと言ってのける人である。

ところで、私はハングルの音楽性との関係で平仮名の音楽性を探りたい欲求にかられる。共に漢字から生まれた文字であるにもかかわらず、日本語の平仮名にはハングルのような音楽性はないように見える。しかしハングルとは別種の音楽性が平仮名には潜んでいるような気がする。

それは私にとっては難しすぎる宿題だが、なんとなく感じることは、平仮名は形態的には漢字を簡略化して作られたといわれるが、その「簡略化」の意味することは実は簡単なことではなくて、もしかしたら漢字を「スペース」に解消していくような動きというか、溶かしてしまうというか、蒸発させてしまうというか、そんな実はかなり過激な運動性=音楽性を秘めているのではないかということである。

アン・サンスに倣って、ハングルとは別スタイルで、平仮名の音楽性を探究してみようか。