昨日は出かけた先で実はひどい症状に見舞われて焦っていた。報告するのを躊躇った。
駅ビル内の大型書店での出来事だった。分野にも判型にも関係なく、書籍、雑誌の区別なく、どの棚の前に立っても、どの本を手に取ってページを捲っても、皆同じような「顔」に見えてしまったのだった。そんなことはかつてなかった。
一見なかり凝ったように見える背や表紙や帯の本でさえ、よく見ると、そしてちょっと中を覗くとみんな同じように見えてきた。その大型書店に並ぶ数十万冊の本や雑誌すべてが、鈴木一誌に倣って言えば、言葉とのズレと不安にふるえているような錯覚(?)に囚われた。本や雑誌が「大量生産品」であることを心底実感してしまったということか。
ここ二週間あまり、『聚珍録』を枕にして寝ている(これは比喩です。念のため。)せいに違いないと思った。
実際にDTPや写植以前の金属活字、さらにそれ以前の木活字や木版等で印刷された古い版面の図版を毎日眺めてるせいで、表情豊かな書風の書体や新鮮な組版の数々が目に焼き付いてしまったからに違いない。わずか二週間前には多種多様に見えていた本や雑誌たちがみなのっぺらぼうに見えた。ヤバい。
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一夜明けて今日、校務を終えてから、何かを思い出しかけて、吉増剛造の大判の詩集を五冊続けざまに捲っていた(吉増剛造を知らない人にはどう言えば少しはその凄さが伝わるだろうか、ちょっと考えた。例えば、「妖精」と書いて「ハングル」とルビを振るような詩人です)。驚いた。どの詩集でも文字たちが微かに恍惚としてエロティックに輝いて見えた。
ある意味で「読めない」と強く感じ、そう公言したこともある吉増剛造の詩集を「読むための目」がこうして図らずも出来あがりつつあるのかもしれない。吉増剛造は近代の印刷術やタイポグラフィとも闘ってきた詩人だったのだと悟った。比較的最近ある意味で「本」や「ページ」の彼方に去ったらしいが。(これだけでは、一体何のことやら分からないと思いますが、なんとなく雰囲気だけは伝わるのでは。詳しいことはいずれ書くつもりです。)