突然一陣の風が

昨日一冊の本を携えて行った河原は、十年ほど前に散策していて偶然発見した静かな場所である。豊平川はその少し上流で土地を深く抉るように小さな滝を作り、その両岸は5メートルほどの高さの断崖になっている。そこから再び緩やかに流れ下る川の水が一旦静止したように大きな池を作る。そのほとりを私は「河原」と呼んでいる。その河原までは獣道のようななだらかな坂道が通じている。河原には岩や石が風化してひび割れ、半ば砂と化し、まるで灰のように見える部分もある。

水と一部灰化した岩や石に囲まれて、ル・クレジオ『歌の祭り』を読んでいた時、突然一陣の風が眼前の「池」に漣(さざなみ)を立てはじめた。『歌の祭り』で不謹慎な遊びをしすぎたからだったのかもしれない。本を舟に見立てて川に浮かべて流そうとしてみたり、棺に見立てて灰のように見える岩の上に置いてみたりしたせいかもしれなかった。まるで『歌の祭り』に内蔵された「古い時間が織りなす古い時代」*1の記憶が息を吹き返して一陣の風となったかのような錯覚にとらわれた。

そしてそれまで鏡面のようだった川面に立ちはじめた無数の漣に記憶の無数の結び目が映し出されるような錯覚にさえとらわれた。

今日はあらためて「読む」ということについて考えていた。読むとは非常に複雑かつ深淵な行為だとかねてから思っていた。書かれた文字を繋ぎながら、意味を多面的に形成し、多数のイメージを組み合わせたり、重ね合わせたり、もちろん、記憶のなかの色んな場所を出入りしたり、それこそ、脳を撹拌するような行為、既存のリアリティを転覆させる力を秘めた行為である、と。だから、何が起こっても不思議ではない。ある意味で恐ろしい。でも、だからこそ楽しい。でなければつまらない。書物、本、あるいは図書館が「迷宮」なのではない。「読む」という行為の中で喚び出される各種の記憶が迷宮と言いたければ迷宮のような構造として生成するのだと思う。