不謹慎な映画に恩寵を見る

昨日、偶然にブラジルはリオデジャネイロのスラム街を舞台にした映画*1を途中から観た。幼い頃から麻薬に溺れ、銃を玩び、ちょっとした感情の動きが簡単に殺人につながり、報復の殺人が連鎖することが日常であるような世界が、そこを生き抜いて将来報道写真家になる男の子の目と語りを通して、回想的に描かれていた。

悲惨この上ないはずの現実が一人一人の子供たちへの仕方のない運命、人生を慈しむような眼差しによって、肯定的に、ある意味で不謹慎に、描かれていた。不謹慎。そう。この映画はその不謹慎さ故に評価がまっぷたつに分かれ、ある大きな賞を逃したらしい。詳しいことは知らない。

しかし、子供たちに罪はない。罰当たりな人生を生きざるをえない現実を作った大人たちこそ罪深い。いつどこでも子供たちは大人たちを映し出す鏡だ。しかも、そんな現実を温存する社会のちょっとやそっとでは変わらない構造がある。その構造の安全な場所でぬくぬくと生きている連中がその構造を維持する権力と金を握っている。その欲望の渦に、そうではない人々も巻き込まれ、彼らの子供たちも気づいたときにはその渦の中で同じ欲望に突き動かされている。

将来報道写真家になる主人公はそんな世界で起こることすべてに目を凝らし、耳を澄ます。そしてそんな世界を支える欲望を解除しそこからある意味で逃走する道を写真の世界に見つける。「瞬間を切り取る目」を鍛える。どんなに非道に見える振る舞いにも何かしらの微かな「恩寵」、グラシアの瞬間があることに気づく。それは銃を誇らしく掲げる幼い子供たちの目の色、そうして寄り添うしか生きる術のない子供たち一人一人の孤独感の漲った目の色かもしれない。

*1:シティ・オブ・ゴッド』(原題:Cidade de Deus)。「神の街」という皮肉っぽくも意味深長な題名の実話に基づいたブラジル映画http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%89