矮小な自己満足を支える大きな構造を知る

人種に根ざした支配と差別の構造にふれる興味深いエントリーを続けて読んだ。

前者は環境・動物保護運動に関わり、後者は貧民救済慈善活動に関わる。両者とも、一見素晴らしい善き行いに思われる運動、活動である。ところがその背景には厳然たる支配と差別の構造が控えている(らしい)。どんな構造も一定の欲望に淵源する。その欲望を解除、解消するような別の欲望が優勢にならないかぎり、構造的な支配と差別、支配と差別の構造は変わらないだろう。でも、なにがどんなきっかけとなって、構造変動を起こすかは予測できない。それは例えばひとつの魅力的な物語の伝播かもしれない。

人種差別の話を読むたびに、先ずは、昨年少し触れた、今は亡き保苅実(ほかりみのる, 1971–2004)さんの仕事を想起する。

保苅さんは主にオーストラリア先住民の研究を基礎に据えて、「壁のない家としての地球」といった非常に風通しのいい大きな世界観を抱きながら、人類学と歴史学を生産的に接合するような類い稀な仕事をした。今手元にある彼の代表作『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(asin:4275003349)には、「白人」をめぐるアボリジニの思考が保苅さんの筆を通して新たな生命を与えれている。われわれには取りつく島のないようにさえ感じられる純粋な「ホワイト」という観念をアボリジニは独自の歴史観によってユーモラスに揺り動かし、そこに無数の亀裂を走らせる(脱構築する)。曰く「アボリジニはドリーミングから発生したが、白人は『猿』からうまれた」(168頁)。

そして、白人内部からの告発者たち、アントナン・アルトーや、彼の精神をそれぞれのやり方で継承したジョナス・メカスル・クレジオを忘れるわけにはいかない。

さらに、同じような支配と差別の構造から日本人とて自由ではないことを忘れてはならないだろう。だから、鶴見良行さんはわれわれの「自己満足」にメスを入れるために東南アジアに目を向け、ナマコに目を付けた。鶴見さんは、一定の経済の仕組みによってもたらされる恩恵に自己満足するわれわれこそが、その同じ仕組みによって極度の貧困を余儀なくされつづける人々との間の距離を縮め、その断絶を飛び越えて、歩き出さないかぎり、われわれ自身こそが実は非常に矮小で上っ面だけの自己像、アイデンティティに束縛されつづけるほかないのだという事実に気づけない不自由さに我慢がならなかったのだと思う。